刀工は、四谷正宗と言われた源清麿、剣客は、最後の剣客と言われた榊原鍵吉です。
【源 清麿】
長谷川平蔵の碑がある戒行寺の向かい側に、宗福寺があります。この宗福寺に、四谷正宗の異名を持つ名刀工源清麿の墓があります。
清麿は信濃国小諸の藩士山浦信風の次男で環といい、文化10年(1813)に生まれました。信濃国上田の刀工河村寿隆の門に入って鍛冶を学び、やがて江戸に出て幕臣窪田清音に兵学を学ぶ傍ら刀工として精進しました。
その後、四谷伊賀町稲荷横丁(現在の三栄町辺り)に住み、名を源清麿と改めて、名刀を打ち出しました。
江戸時代後期の刀工の第一人者として、天保弘化年間に活躍しました。その切れ味は正宗のようだと言われ、世の人は「四谷正宗」と呼びました。清麿の作風は、相州伝、美濃伝に属する力強いもので、作品の一部は刀剣博物館や国立博物館に保存されているとのことです。
源清麿の墓は本堂の脇にあります。
【榊原 鍵吉】
宗福寺の前の道を西に向かい、まもなく南側に西応寺があります。この、西応寺に幕末から明治にかけて活躍した、最後の剣客榊原鍵吉の墓があります。
榊原鍵吉は、天保元年(1830)麻生広尾に生まれました。
12歳のとき、麻布狸穴の直心影流男谷(おだに)精一郎門下となり、嘉永2年(1849)には免許をうけます。
安政3年(1856)幕府講武所の剣術教授方に登用され、万延元年(60)築地から小川町に移転した講武所の開場式の際、模範試合で槍術方の高橋伊勢守(後の泥舟)を打ち込んで名をあげました。
文久元年(61)将軍家茂の上洛を警護して、その信任を受け、文久2年(1862)には同師範に昇進、元治元年(1864)には下谷車坂の屋敷で道場を開きました。
慶応2年(1866)には幕府遊撃隊頭取となり、上野戦争で活躍しますが、明治元年(1868)8月徳川家達に従い静岡に移住し、その後、明治政府より再三招かれますが、断り、明治6年(1873)撃剣会を発足させ、維新後衰退した剣術の再興と普及に努めました。明治20年には、明治天皇天覧のもと、伏見宮邸において、見事に兜(かぶと)割りの特技を実演に供して名声を博しました。
なお、鍵吉が指導を受けた男谷精一郎信友は、勝海舟とは従兄弟の間柄になる人物です。
西応寺の向かい側に、山田浅右衛門が眠る勝興寺があります。
山田浅右衛門については、別の機会に紹介します。

