【浅草橋門】
浅草橋門は、現在の浅草橋の南たもとにありました。
下の浅草橋は北側から撮っていますので、橋の先にあったことになります。
浅草橋門は、奥州街道の出入り口の関門として、神田川が隅田川に流れ込む部分に建てられました。
浅草橋門の浅草は、「浅草寺」の正面にあることから付けられた名前です。
「浅草寺 見附で聞けば つきあたり」という句の通り、浅草見附(浅草橋門)の真北が浅草寺になります。
門が建てられたのは、寛永13年(1636)で、門を構築したのは、越前藩主松平忠昌でした。
開幕当時は、現在の常盤橋門が、浅草口と呼ばれましたが、この門が構築されてからは、浅草口の名前も、こちらに移りました。
【浅草見附跡の碑】
浅草見附(浅草橋門)は橋の南側にありましたが、浅草見附跡の碑は、橋の北側に設置されています。
ちなみに、浅草橋の南側は中央区で、北側は台東区です。
碑だけ建っていて、説明板もないのがさびしいですね。
浅草橋門の門外には高札場がありました。
また、門内には郡代屋敷が置かれました。
江戸の三大大火の一つである明暦の大火の時には、この門が閉じられたため、ここで2万3千人もの人が死亡するという惨事も起きています。
【江戸名所図会】
江戸名所図会には、門でなく浅草橋について次のように書かれています。
浅草橋
神田川の下流、浅草御門の入口に架(わた)す。このところに御高札を建てられる。馬喰町より浅草への出口にして、千住への官道なり。
この東の大川口にかかる柳橋と号(なづ)く。柳原堤の末にあるゆえに名とするとぞ。
【柳橋】
ここに書かれている柳橋の現在の様子が下の写真です。
江戸時代中ごろまで、ここには橋がなく、渡船で往来していましたが、元禄10年に南町奉行所に架橋を願い出て、翌年の元禄11年に完成しました。
明治維新後は、新橋とならぶ花街となりました。新橋は各藩からでて政府の役人になった人が利用したのに対して、柳橋は、江戸以来の商人や旗本が利用すること多かったようです。
右の写真の撮影時期は不明ですが、幕末から明治にかけての柳橋の写真です。
柳橋の北側から隅田川方向に撮った写真です。
手前が柳橋で奥にかすかに見えているのが両国橋です。
この写真は、「長崎大学附属図書館所蔵」の写真です。
長崎大学付属図書館のご厚意により「幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」から
画像を転載させていただいています。