今日10月30日は、 「十三夜」 です。十五夜にだけ月見をして、十三夜に月見をしないことを 「片月見」 と言って江戸時代の人は嫌いましたので、十五夜をご覧になった方は、今夜、月見をしてください。
さて、今日も浅草橋門に関係する話の続きです。
浅草橋門の門内には、関東郡代の 「郡代屋敷」 がありました。
「郡代屋敷跡」の説明板が、浅草橋の南たもとの小公園に建てられています。
【関東郡代】
関東郡代は、江戸時代に4ヶ所設置された郡代の一つで、 関八州の幕府直轄領の年貢徴収・治水・裁判などの民政を管理する地方官です。
伊奈忠次を代官頭に任じたことを端緒とし、寛永19年(1642)に伊奈忠治が関東諸代官の統括を命じられたことにより事実上始まり、その後10代150年間に渡って伊奈氏が世襲しました。
関東郡代は、他の郡代や代官の5~6倍にあたる約30万石を管轄しており、他の郡代とは別格の存在でした。
【伊奈忠次】
伊奈氏はもともと信濃国伊奈郡(伊那郡)の出自であると伝えられる三河譜代の家系です。
伊奈忠次は、駿・遠・三の奉行として活躍し、小田原征伐では小荷駄による兵粮の輸送などを一手に担い、代官としての地位を固めました。
家康が江戸に移封された後は、代官頭として家康の関東支配に貢献し、各地で検地、新田開発、利根川や荒川の付け替え普請、河川改修を行いました。
そして、武蔵国足立郡小室(現埼玉県北足立郡伊奈町)および鴻巣において一万石を与えられ、大名になっています。
【伊奈忠治】
伊奈忠次の次男忠治は忠次の死後、関東郡代となります。
忠治も父の仕事を引き継いで関八州の治水工事、新田開発、河川改修を行い、関東の治世に大きな貢献をしました。
埼玉県北足立郡伊奈町、現在つくばみらい市となった旧筑波郡伊奈町の町名は、ともに伊奈忠次、忠治に由来するものです。
伊奈忠次、忠治の墓所は、忠次の領地であった埼玉県鴻巣市の勝願寺にあります。
上の写真2枚が勝願寺の山門と墓所の説明板の写真です。
こうして、関東郡代として世襲された伊奈氏も10代忠尊がお家騒動と讒言によって罷免されてしまうと関東郡代の世襲制は廃止され、関八州は勘定奉行と代官による分治となります。
そして文化3年(1806)には、関東郡代そのものが廃止されてしまいました。