浅草橋門で2万3千人もの人が死亡した明歴の大火により、幕府は江戸の大改造を実施します。
そして、浅草橋門の周辺も大きな変化がありました。
両国橋の架橋と両国広小路の設置です。今日は「両国広小路」について書いていきます。
【明暦の大火とは】
明暦の大火とは、明暦3年(1657)に起きた大火で、大火が頻繁に起きた江戸でも、10万人余りの死者がでたという江戸最大の大火です。 この大火により、江戸城の天守閣も焼け落ちています。明暦3年1月18日、本郷丸山本妙寺の振袖の供養の火から第一番の火事が起きていることから「振袖火事」とも言われています。
この明暦の大火のことを書いた本で有名なものが、浅井了意により書かれ、万治4年(1661)に刊行された『むさしあぶみ』という本です。
初音森神社では、思いがけず、この『むさしあぶみ」の現代訳本を500円で販売していましたので、早速購入しました。
ご神職のお父さんが持っていたものを現代訳したものだそうですが、わかりやすい訳で、明暦の大火のものすごさがよくわかる内容となっています。
当然、浅草橋門の惨劇も書かれていました。
【両国広小路】
明暦の大火の反省から、幕府は両国橋を架橋します。
両国橋は市街地が拡大された本所・深川方面への幹線道路として大きな役割を果たすとともに、東西のたもとは火除地としての役割も担いました。
広小路とは、広い道路のことを言います。明歴の大火の後には、江戸市中各所に広小路が造られ、火除け地としての役割をはたしました。両国橋の東西にも広小路が設けられ、両国広小路と呼ばれました。
火除け地であるため、恒久的な建物は認められませんでしたが、見世物小屋や茶店などが造られ、江戸第一の盛り場として繁栄しました。
現在は、両国といえば、両国橋の東側を指しますが、江戸時代には、西側のほうが栄えていました。
【旧跡両国広小路の碑】
両国広小路を記念した碑が、両国橋の西たもとに設置されています(上の写真)
碑文を抜き書きすると次のようになっています。
明暦の大火(1657年)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した。
その際このあたりで逃げ場を失って焼死するものが多数出た。 このため対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた。 隅田川は当時武蔵下総両国の境をなしていた。
また延焼防止のため橋に向う沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした。
やがてこれが広小路となり 江戸三大広小路の一つとして上野浅草に並び称せられる盛り場に発展した。
明治維新のころここには新柳町元柳町横山町吉川町米沢町薬研堀町若松町があったが、昭和7年合併して日本橋両国となり現在に及んだ。
維新後百年を経た今日 まちの近代化はめざましく、広小路や両国の名も過去のものとして忘れ去られようとしているが、300年前火除け地が設定され、これが広小路に発展して行った事跡のなかには、先人の英知と努力が偲ばれてまことに意義深いものがある。
ここに由緒ある両国広小路の旧跡を永く保存するため 町会の総意により この碑を建てた。
昭和44年11月3日

