筋違橋は、「すじかいばし」 と読みます。最近「すじかい」という言葉はあまり聞かれなくなりましたが、交差するという言う意味で 建築用語としてはかなり使われています。
【筋違橋門(すじかいばしもん)】
この門を建てたのは、加賀藩主前田利常で、枡形は寛永13年に完成し、門は寛永16年に完成しています。
「すじかい」という名前がついた由来は、中山道と上野寛永寺へ向かう御成道とが、ここで交差することから付けられたと言われています。
つまり、中山道は、日本橋をスタートし、現在の須田町の交差点を直進し筋違橋門に出ます。そして、門と橋を過ぎると湯島に向かいます。
一方、御成道は、大手門を出て、神田橋を通り、現在の小川町交差点を右折し、さらに淡路町交差点を左折し、筋違橋門に出ます。そして、下谷に向かいます。
中山道と御成道が、ちょうど筋違橋門で交差するような道筋となっています。
現在では、中央線の高架のレンガの壁沿いに、「御成道」の説明板がたっていて、わずかに、筋違橋門があったことがわかるだけです。
元の鉄道博物館の建物の南側を中央線の高架沿いに神田郵便局に向かって歩いていくとレンガ壁の脇に説明板がひっそりとたっています。並木の脇に写っているのが説明板です。
現在は、筋違橋門は当然ありませんが、筋違橋も取り壊されているため、まったく面影がありません。
この写真は、昌平橋から万世橋方向を撮った写真ですが、右側のレンガ壁の上を総武線が通っています。
このレンガの壁の中央あたりに、筋違橋があったようです。
【八ッ小路(やつこうじ)】
筋違橋門内の広場は八ッ小路(やつこうじ)と言われました。
右の絵は、歌川広重の描く 「名所江戸百景『筋違内八ッ小路(すじかいうちやつこうじ)』」 です。
八ッ小路と言われるのは、この所から八方への分かれ路があったためです。
八方向は、筋違橋御門、昌平橋、駿河台、小川町、連雀町、日本橋通り、柳原、小柳町へ向かう出口を言いました。
右下の茶店の後ろ辺りが筋違橋門です。右上の森が神田明神、左手上の森が聖堂、真ん中の柳が茂る土手が柳原の土手、土手の手前の番所は昌平橋への口、番所の左は武家屋敷で、その武家屋敷と土手の間が駿河台への口です。
左下を斜めに横切る行列は大名の奥方の行列のようです。
ところで、江戸名所図会では、筋違橋について次のように書いています。
須田町より下谷への出口にして、神田川に架(わた)す。御門ありて、このところにも御高札を建てられる。この前の大路を八ッ小路の辻と字(あざな)す。