小石川門は、現在の小石川橋の南たもとにありましたが、現在は、その痕跡はまったくありません。
【小石川橋】小石川橋は、水道橋駅の上手歩いて2分です。
小石川門は、寛永13年(1636)に、備前岡山藩主池田光政が築きました。
江戸城から小石川方面への出入口であることから、「小石川口」と呼ばれました。また、門前に水戸徳川家があったので水戸様御門とも呼ばれました。
小石川門の櫓門は、寛政4年(11792)に焼失した後は、再建されませんでした。
そして、明治6年には、桝形の石垣も撤去されてしまいました。
【日本橋川分流】
上の写真は、三崎橋から小石川橋を撮ったものです。実は、三崎橋の下から、日本橋川が神田川から分流しています。
しかし、江戸時代は、この分流はありませんでした。
日本橋川の歴史を書いた「飯田町遺跡周辺の歴史」という説明板が、新三崎橋のたもとに建てられています。それによると次のようです。
江戸時代以降、この一体は神田川下流の平川と小石川が合流する地点でした。元和6年(1620)、幕府は江戸城下の中心部を洪水から守るために、神田川の流路を東に曲げて、駿河台を掘りぬき、現在の「神田川」を切り開きました。
この工事によって、それまで日比谷入江に注いでいた平川を堀留(現在の堀留橋)で神田川から切り離し、江戸城の外堀としました。
「正保年中江戸絵図」には堀留の北側にも堀が延びており、工事後しばらくはこの付近まで平川の流路が残っていたことを示しています。
また、平成12年に行われた飯田町遺跡の発掘調査では、江戸時代初期の盛土や石垣、板の土留めの護岸をもつ幅10mの堀が発見されました。この堀は、先の「正保年中江戸絵図」に見える平川流路の名残りと考えられ、明暦3年(1657)の大火直後に埋め立てられたことがわかりました。
その後、明治36年には日本橋川を再度開削して神田川に接続させ、現在の神田川支流の日本橋川となりました。
【高松藩上屋敷跡】
小石川門の門内には、高松藩松平家の上屋敷と中屋敷がありました。高松藩の藩祖は、松平頼重です。松平頼重は、水戸徳川家の藩祖徳川頼房の長男です。事情があり、水戸徳川家は三男の徳川光圀が継ぎました。
そして、松平頼重は、讃岐高松藩12万石を開きました。
その高松藩の上屋敷と中屋敷は、江戸時代には日本橋川が埋め立てられていたため向かい合ってありました。
現在、上屋敷の跡はJR貨物が主となってできた再開発事業のアイガーデンエアとなっています。
この写真は日本橋川沿いのガーデンウォークからからアイガーデンエアを撮ったものですが、写真の下部に「讃岐高松藩上屋敷の土蔵跡」の説明板があります。
赤印が小石川橋、青のカメラが小石川橋の撮影場所、緑印が飯田町遺跡の説明板、ピンクが高松藩上屋敷の土蔵跡の説明板 です。

