今日は、この坂に関する話題です。
【紀尾井坂】
江戸時代、喰違門に通じる坂の北側には尾張名古屋藩徳川家、南側に紀伊和歌山藩徳川家、彦根藩井伊家の屋敷があったことから、一字ずつ取って紀尾井坂と呼ばれました。
現在の紀尾井坂は、ホテルニューオータニへ向かうメイン通りとなっています。
【紀尾井坂の変】
明治11年(1878)5月14日、時の参議兼内務卿大久保利通が、紀尾井坂で暗殺されました。これは、「紀尾井坂の変」と呼ばれています。
大久保利通は馬車で自邸から赤坂仮御所へ向かう途中、紀尾井坂で、待ち伏せていた石川県士族島田一郎ら6名に暗殺されました。
紀尾井坂の近くの清水谷公園に、「贈右大臣大久保公哀悼碑」が建立されています。
【大久保利通】
大久保利通は、鹿児島の下級藩士の家に生まれ、長じて、島津久光の側近となり、公武合体運動を推進しましたが、やがて討幕へと転じ、岩倉具視らと結んで慶応3年(1867)12月、王政復古のクーデターを実行しました。
明治維新後は、版籍奉還や廃藩置県を推進した後、参議、大蔵卿を経て、明治4年(1871)岩倉遣外使節団に随行し、帰国後、内政整備を主張し、西郷隆盛ら征韓派と対立し、下野させました。
その後、参議兼内務卿となり、地租改正、殖産興業の推進し、西南戦争を代表とする士族の反乱も抑えるなど、重要施策を実行し、暗殺された当時、明治政府の最高実力者でした。
上記の大久保利通の画像は、国立国会図書館ウェブサイトから許可を受けて転載させていただきました。
【清水谷公園】
清水谷公園は、紅葉の真っ盛りでした。
ここは紀伊徳川家の屋敷であったところで、清水が湧き出ていたことにちなみ、清水谷と呼ばれたようです。
「贈右大臣大久保公哀悼碑」を中心に多くの樹木が茂る公園で、秋には、身近に紅葉がみられる大都会の中のオアシスになっています。