「喰違の変」 とは、喰違門で起きた時の右大臣岩倉具視に対する暗殺未遂事件です。
【喰違の変】 岩倉具視が襲われたのは、不平士族の強い恨みからでした。
前年明治6年(1873年)10月に政府内で起きたいわゆる征韓論争に敗れて、征韓派参議の西郷隆盛・江藤新平・板垣退助らが下野しました。
このことにより、不平士族らは一層の不満を高め、征韓論争を主導した岩倉具視や大久保利通に対する恨みは特に強くなりました。
明治7年1月14日の夜、公務を終え、赤坂の仮御所から退出して自宅へ帰る途中だった岩倉具視の馬車が、喰違門にさしかかった際、高知県士族の武市熊吉ほか8名の襲撃者が、手に手に太刀を引き抜いて一斉に岩倉具視を襲いました。
岩倉具視を襲撃した者は西郷や板垣に従って職を辞した元官僚・軍人だそうです。
駆者は斬られ、岩倉具視も身に数箇所の傷をうけたものの、真田濠にのがれ、襲撃者達が岩倉具視の姿を見失ったため、一命を取り留めることができました。
(上記の岩倉具視の画像は、国立国会図書館ウェブサイトからの転載です。)
岩倉具視が姿を隠した真田濠(別名四ツ谷濠)は、現在は、右の写真のように上智大学のグランドとなっていて水は全くありません。
【井伊直弼もいた井伊家中屋敷】 来年の江戸文化歴史検定のお題が「幕末」ですので、最近、幕末関連の本を読むようにしています。
現在は母利美和氏著の「井伊直弼」を読んでいます。
その中で、井伊直弼が、弘化3年(1846)に彦根藩12代藩主直亮(なおあき)の世子となって、江戸に出府してきますが、世子の時代には、井伊直弼は彦根藩中屋敷に住んでいたという記載がありました。
彦根藩中屋敷とは、先日紹介したホテルニューオータニのあるところです。
そうしますと、現在もホテルニューオータニの庭園にある「イヌマキ」や「カヤ」の木を井伊直弼も眺めたことがあったのかもしれません。
最後に
江戸文化歴史検定の受験データーが発表されました。
今年は1級の合格者が16名で合格率が1.7%ということですので、本当に狭き門ですね。
合格された皆さんおめでとうございます。
一方、涙をのまれた皆さんの悔しさもよくわかります。一度、心を整理して捲土重来を期してください。
第5回の「今年のお題」は『幕末』ということですので、「三十六見附」シリーズの後、東京における幕末の史跡を巡るなどして、幕末関連の記事を、随時、書いていきたいと思います。
江戸文化歴史検定の受験者や合格者がもっと増えるといいなぁと思っていますので、受験される皆さんに、いくらかでもお役に立てばうれいしいですね。

