香取神社は、東覚寺より歩いて3分の距離にあります。亀戸駅からは10分程度歩きます。
【香取神社 恵比寿神・大国神】
香取神社の由緒は、神社のHPによれば、「創設は天智天皇4年(665)、藤原鎌足公が東国下向の際、この亀の島に船を寄せられ、香取大神を勧請され太刀一振を納め、旅の安泰を祈り神徳を仰ぎ奉りましたのが創立の起因」となっています。
江戸名所図会にも「当社は亀戸村草創よりの勧請にして、この辺第一の古跡なりといえり(ある説に当社は大職冠鎌足公(藤原鎌足)の勧請なりという」と書かれています。
【福神社】
福神社のご祭神は、大国主神(おおくにぬしのかみ)と事代主神(ことしろぬしのかみ)です。
ここでは、大国主神の子供である事代主神(ことしろぬしのかみ)がえびす様とされています。
福神社の社殿脇の説明板に「元々本社の相殿に祀られていた大国主神と併せて、明治に、七福神のうちの恵比寿神・大国神として境内にお祀りした」と書かれています。
【亀戸の由来】
亀戸は昔小さな島からなっており、初め亀島または亀津島とも呼ばれ、島の形が亀に似ているところからそのように名付けられました。
現在、亀戸周辺には北に向島・牛島・南に大島、西に柳島など島にちなんだ地名が多く、昔は島であったと考えられています。
葦の海辺が次第に堆積して亀島となり、村落を形成して漁村となり、さらにはこれらの島々も四辺陸続きとなって耕地へと遷り変わり、亀島は亀村と称されるようになったそうです。
後に臥龍梅庭内にある亀ヶ井という井戸と混同され亀井戸と呼ばれ、亀井戸の井が略されて亀戸と呼ばれるようになったといわれます。
江戸名所図会にも「香取大神宮 この地も昔は大平塚に等しく海にして、一つの離島なり。亀の浮べるに似たりとて旧名を亀津島と唱えたりという」と記されています。
【本殿前の恵比寿・大国】
本殿前に、復興された亀が井戸と恵比寿・大国神があります。
亀が井戸から汲み上げた水を恵比寿・大国神にかけて1年間の無事と健康を祈願してきました。
【普門院 毘沙門天】
普門院は香取神社から歩いて5分です。
御府内八十八ヶ所めぐりで参拝していますので、2回目のお参りです。
普門院は樹木が多く、境内は冬の今でも緑が一杯でした。
江戸名所図会に、由来について詳しく書かれています。それによると、この寺は、大永2年(1522)に武蔵国豊島郡石浜(現在の荒川区)に創建されたと伝えられ、元和年間(1615年~1624年)に現在の土地に移りました。
【江戸名所図会に書かれた縁起】
「縁起に云わく、大永2年千葉介自胤(よりたね)、三股の城中に一宇の梵刹を開き、この霊像を安置し、長賢上人をして始祖たらしむ。 いまの普門院これなり。三股といえるは、隅田川・綾瀬川・荒川の落ち合い、三股になるところをいえり。昔千葉家在城の地なり。その頃、普門院の郭と称しけるとなり。」
【鐘が淵の由来】
右の写真は毘沙門堂です。毘沙門堂は、門を入った右手にあります。
さて、江戸名所図会には、隅田川の鐘が淵の由来も、普門院が関係していると書かれています。
「しかれども後兵火にかかり、堂塔ことごとく灰燼せり。この際にいたり洪鐘一口、隅田川に沈没す。その地をなづけて鐘が淵と呼ぶ。
元和2年あるいはいう6年)住持栄真法印、公命によりて三股の地を転じて、寺院をいまの亀戸の村に移すという。」
【毘沙門堂の内部】
毘沙門堂はかなり大きなしっかりした堂です。
開帳されていませんでしたが、中はかなり広いように見えました。
毘沙門天は遠くに見えましたが、詳細ははっきりみえませんでした。
普門院は、明治の歌人伊藤左千夫の墓があり、境内に歌碑もあります。
歌碑については、御府内八十八ヶ所めぐりの際に書いた このブログ に書いてあります。