そこで、受験される皆さんのお役にいくらかでも立つように、幕末に関する話題を随時掲載していきます。
話題は、幕末の主要な事件について、事件の起きた日を中心に書いていきたいと思います。
1月は、文久2年(1862)1月15日の「坂下門外の変」、嘉永7年(1854)1月16日の「ペリー再来航」、慶応2年(1866)1月21日の「薩長同盟の成立」について書こうと思っています。
まず最初は「坂下門外の変」についてです。
文久2年(1862)正月15日に、時の老中安藤信正が、坂下門外で水戸浪士たちに襲われるといういわゆる「坂下門外の変」が起きました。
今日は、安藤信正が襲撃される背景について書いていきます。
【磐城平藩安藤家】
安藤信正は、磐城平藩5万石の藩主です。
安藤家の宗家は、徳川家康の側近を努めた後、紀州藩徳川家の付家老となった安藤直次の系統で、紀州藩の中で、田辺領3万8千石の所領でした。
磐城平藩安藤家は、直次の弟重信の系統で、宗家よりも石高が高く、安藤信友や信正等の老中が出ているため安藤家の嫡流と間違われますが、正しくは安藤家の分家筋にあたります。
なお、上記の写真は、幕末もしくは明治初年の坂下門です。
この写真は、「長崎大学附属図書館所蔵」の写真です。
長崎大学付属図書館のご厚意により「幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」から画像を転載させていただいています
コメントには、「江戸城の坂下門が壕の向こう側の左手に見え、右手には本丸辰巳三重櫓が見える。この写真が撮られた翌年の明治3年に火薬庫の爆発によって正面に見える多門壕と三重櫓は消失した。」と書かれています。
【安藤信正の経歴】
安藤信正は、嘉永4年(1851)33歳で寺社奉行となり、安政5年(1858)若年寄となり、万延元年(1860)1月15日に、井伊大老のもとで老中になり外国御用取扱を兼務しました。
桜田門外の変で、井伊大老が暗殺されるのは、万延元年3月3日ですので、井伊大老が亡くなる約50日前に老中に就任したことになります。
井伊大老が暗殺された時、安藤信正は、すぐに彦根藩邸におもむきお見舞いをしました。
井伊大老は、既に死亡していましたが、お見舞いの形をとったことにより、井伊大老が生きていることとなり、彦根藩は改易されませんでした。また、彦根藩と水戸藩の武力衝突を避けることができました。
【安藤信正の政策】
井伊大老が暗殺され、反井伊派として排斥されていた関宿藩主久世広周(くぜひろちか)が返り咲くと、安藤信正は久世広周とともに幕閣の中心人物となります。
幕府は桜田門外の変により強硬路線を進めるわけにいかなくなりました。
そこで、安藤信正は、公武合体政策を進め、和宮降嫁の実現に奔走しました。
和宮が硬く拒否し、孝明天皇も反対します。そうした中で安藤信正は強力に推し進め、万延元年8月18日に和宮降嫁が勅許されます。
尊王攘夷志士らはこれに反発、老中安藤信正に対し憤激しました。
また、幕府が廃帝をくわだてているとの風評がありました。
すなわち孝明天皇を退位させて、新しい幕府の意のままに操縦できる天皇をたてようとする陰謀があり、その首謀者が安藤信正だとうわさされました。
【坂下門外の変】
こうしたことから、安藤信正に対して尊王攘夷派の水戸浪士たちは激怒し、正月15日に登城途中の安藤信正の行列に襲撃をかけました。
桜田門外の変以降、登城の際の大名の警備は厳重になっており、当日も安藤信正の供回りが50人ほどいたため、安藤信正は負傷したにとどまり、水戸浪士たち6人は暗殺の目的を遂げる事なく全員きり伏せられました。
これが、坂下門外の変です。
明日は、「坂下門外の変」の襲撃の様子を書きます。