正月15日は、上元の佳節で諸大名が江戸城に登り将軍に拝謁する日でした。
この日、安藤信正は、五つ時(現在の午前8時)に西の丸下の藩邸を出発しました。
安藤信正の行列が坂下門にさしかかると水戸浪士たち6名が行列を襲撃しました。
【平藩上屋敷は坂下門の目の前】 磐城平藩は、それまで浜町に上屋敷を持っていましたが、安藤信正の若年寄就任により西の丸下に、役宅を兼ねた上屋敷を拝領しました。
この屋敷は、それまで老中であった堀田正睦が使用していたものだったそうです。
安藤信正の屋敷から坂下門までは、100メートル余りの距離で、坂下門の目の前にあるという位置関係にあります。
右上の図をみていただければ、位置関係がよくわかると思います。
「坂下門外の変」はこのわずかな距離の中で起きたものでした。
右の写真は、坂下門の前から安藤信正の屋敷があったと思われる場所を撮ったものです。現在は、皇居外苑の一部です。【襲撃者たち】
安藤信正を襲撃したのは、水戸藩浪士・平山兵介、小田彦三郎、黒沢五郎、高畑総次郎(房次郎とも言われる)、下野の医師・河野顕三、越後の医師・川本杜太郎の6名でした。
当初予定したメンバーの一人の川辺左次衛門が刻限に遅れたため、浪士たちは6名で襲撃を決行しました。
浪士たちは、登城口近くで、高畑総次郎が行列の動きを監視、黒沢五郎と小田彦三郎が行列右側、川本杜太郎とリーダーの平山平介が左側に位置し、河野顕三が坂下門付近に待機という布陣で待ち受けました。
【襲撃の様子】
安藤信正の行列は上屋敷の北側の表門から斜め前約100メートルの坂下門へ進みました。
正月15日は、諸大名総登城の日であるため、坂下門前の広場は諸大名の供回りなどで大混乱していました。浪士たちはこの混雑に紛れ安藤信正を狙ったのでした。

まず平山兵介が襲撃趣意書を訴状のように持ち、駕籠近くへ進んでいきました。
供回りが阻止する中、平山兵介は駕籠に向けてピストルを発射しましたが、平山兵介の銃弾は駕籠をそれました。
浪士たちは、平山兵介のピストル発射を合図に一斉に抜刀して斬り込んで行きました。
平山兵介は、この後も駕籠を執拗に狙い、駕籠越しに安藤信正の背に突き傷を負わせましたが、供回りに斬り伏せられ、その他の襲撃者も斬り合いの後、斬り伏せられました。
駕籠を抜けて、門に逃げ込もうとした安藤信正を、黒沢五郎と河野顕三が追りました。
しかし、黒沢五郎は進路を遮断されて斬られ、河野顕三は坂下門付近まで安藤信正に肉薄し、その頬に一太刀浴びせましたが斬られました。
安藤信正は背中に深さ長さが一寸(約3センチ)の傷をうけましたが、一命を取り留めました。
一方、襲撃した側の浪士はいずれも即死しました。
また、刻限に遅れた川辺左次衛門は、長州藩邸におもむき斬奸状を提出し切腹して果てました。
「坂下門外の変」の襲撃は、上の写真のあたりで行われたのではないでしょうか。
今も皇宮警察の人たちが厳重に警備していました。

