本日で「坂下門外の変」は3回目ですが、今日は「坂下門外の変」の後の安藤信正について書いてみます。
【名前変更】 安藤信正は、坂下門外の変で負傷したため、2ヶ月間静養した後、政務に復帰しました。
そして、3月26日に名を信正に改めます
それまでの名前は信行、元服の時は信睦でした。
従って、「坂下門外の変」が起きた時は、安藤信行でしたので、正しくは、安藤信行でしょうが、多くの本が、安藤信正としていますので、このブログでは、安藤信正で統一しています。
【有能な安藤信正】
安藤信正は、大変有能な政治家で、評価が高かったようです。
老中になった後、和宮降下も実現しましたし、幕府の軍制改革も計画しました。
特に外交面で、次々と起きたヒュースケン暗殺事件、水戸浪士による東禅寺イギリス公使館襲撃事件などの難問を処理しました。
当時のイギリス公使オールコックもその著書「大君の都」の中で、「安藤対馬守とわたしの関係は、常に友好的でいんぎんなものであった」と書いています。
【安藤信正 失脚】
しかし、安藤信正の政務復帰については、幕府内外からの反発がありました。
安藤信正が背中に傷を受けたことをあげつらって士道がすたると主張する強硬論者もいました。
また、安藤信正がハリスと贈収賄を行ったとか女性関係を暴露する怪文書が出回るなどしました。
その結果、4月11日に老中を罷免され、8月16日には隠居・蟄居を命じられ、後は長男の信民が継ぎました。
さらに、翌年1月20日には所領のうち2万石を減封されることになりました。
【反発の背景】
こうした背後には、大目付・目付を中心とした反安藤の動きがありました。
それは、万延元年(1860)に安藤信正が中心となって出した「五品江戸回送令」以来の全国市場支配方式をめぐる幕府内の対立がありました。大目付・目付を中心とする急進派と勘定所を中心とした慚進派との対立です。
安藤信正は慚進派を支持し大目付・目付の急進派を排除していました。この急進派の大目付・目付が安藤信正の復権に猛反対しました。
さらに幕府外から薩摩藩の島津久光らの圧力がありました。久光は改革趣意書を朝廷に提出して、この中で安藤信正の退陣を強く求めました。

【明治維新の安藤】
安藤信正は、明治新政府が立ち上がると、信民を継いだ若年の藩主安藤信勇に代わって、藩政を指揮し、奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦いましたが敗れ、磐城平城は落城し、安藤信正も降伏し、小石川の下屋敷で謹慎を余儀なくされました。
そして、明治2年(1869)9月10日に永蟄居の処分が解かれた後、明治4年10月8日53才で、その生涯を閉じたのでした。

