今日1月21日は、幕末いや日本史における画期的な出来事である「薩長同盟」が成立した日です。
「薩長同盟」は慶応2年1月21日に成立しました
坂本龍馬の業績は数々ありますが、その中で最も大きな業績の一つにといってよいでしょう。
現在放映されている大河ドラマ「龍馬伝」で必ず出てくると思いますが、龍馬が暗殺される2年前の功績ですので、放映は、多分、秋以降になると思います。
【薩長同盟締結場所・当事者・概要】
さて、薩長同盟締結のための会談は、京都の薩摩藩邸で行われました。(ただし、小松帯刀邸という説もあります。司馬遼太郎の「龍馬がゆく」では小松邸となっています。)
薩摩の代表は、家老の小松帯刀、西郷吉之助(隆盛)で、長州の代表は桂小五郎(木戸孝允)でした。
会談内容は文書化されませんでした。(個人的には、同盟内容が当事者同士で文書となっていないことにビックリしました。)
しかし、翌日つまり1月22日に、桂小五郎が整理してあります。
それによると6か条あります。
概略で書くと、第2次長州征伐が、「戦」になったとき(第1条)、それに長州が勝つ場合(第2条)、長州が負ける場合(第3条)、また「不戦」の場合を想定して、それぞれ対応を決めてあります。
そして、第5条でどうしても長州の復権が実現しないときには、幕府との決戦の覚悟を述べており、最後の第6条では「皇国」の概念を述べています。
【薩長同盟の盟約内容詳細】
江戸検定で出題されるかどうかわかりませんが、江戸検定を意識して、薩長同盟の各条項の内容を書いておきます。
1、長州が戦争となった時には、薩摩は兵を京阪に送り、京阪を固めること
[一、戦と相成候時は、直様2千余の兵を急速差登し、只今在京の兵と合し、浪華へも千程は差置、京阪両処相固め候事]
1、戦いが長州藩の勝利になりそうな時は、薩摩は朝廷に申し上げ尽力すること
[一、戦自然も我勝利と相成 候気鋒これあり候とき其節朝廷へ申上、屹度尽力之次第これあり候との事]
1、万一 敗色であっても1年や半年で壊滅することはないであろうから薩摩はいろいろ尽力すること
[一、万一戦負色に有之候とも、1年や半年決而(けっして)壊滅致し候と申事は無之に付、その間には必尽力次第屹度有之候との事]
1、幕府の兵が引き上げた場合には、すぐに長州藩の冤罪がとけるように尽力すること
[一、是なりにて幕兵東帰せしときは、屹度朝廷へ申上、直様冤罪は朝廷より御免に相成候都合に屹度尽力との事]
1、兵士を上京させた上でも、一橋、会津、桑名等が朝廷を擁し、周旋尽力の道をさえぎるような時には、決戦する。
[一、兵士をも上国の上、橋会桑等も只今のごとき次第にて、勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を拒み、周旋尽力の道を相遮り候ときは、終に決戦に及び候外これなきとの事]
1、冤罪がとけた場合は、両藩が皇国のために尽力する。
[一、冤罪も御免の上は、双方誠心を以て相合し、皇国の御為めに砕身尽力仕り候事は申すに及ばず、イツレの道にしても、今日より双方皇国の御為め、皇威相暉 き、御回復に立至り候を目途に、誠心を尽し、屹度尽力致すべきとの事]
この条文を読むと、半藤一利氏が「幕末史」の中で
「薩長同盟といえばふつうお互いに攻守同盟を結んだように思われやすいのですが、そうではなく、あくまで長州が攻撃された時には薩摩が全力をあげて助けることを明示すると同時に、両藩が一緒になり、皇国のため、国威を輝かすために全力を尽くすことを約束したのです」
と書いてある意味がよくわかります。 つまり、薩長同盟は攻守同盟ではないようです。
【龍馬の裏書】
さらに、桂は帰国の途中23日に大阪から龍馬に手紙を書いて保証を求めました。
それに対して、龍馬は朱書きで、手紙の裏に次の文を書いて保証しました。
「表に御記被成(おしるしなられ)候六条ハ、小(小松帯刀)、西(西郷吉之助)両氏及老兄(桂小五郎)、龍(坂本龍馬)等も御同席ニて談論セシ所ニて、毛(すこし)も相違無之(そういこれなく)候。将来といへども決して変わり候事無之(これなき)ハ、神明の知る所ニ御座候。
丙寅(ひのえとら) 二月五日 坂本龍」
この裏書は、慶応2年2月に京都から西下した長州藩士村田新八らによって桂にわたされたそうです。
上記の坂本龍馬と桂小五郎(木戸孝允)の写真は「国立国会図書館蔵」です。