【薩長同盟とは米ソが手を結ぶようなもの】
司馬遼太郎は「竜馬がゆく」の中で、薩長同盟がどのような意味を持ち、龍馬の価値がどういうものかについて、次のように書いています。
「この当時、薩長連合というのは、龍馬の独創的構想ではなく、すでに薩長以外の志士たちのあいだでの常識になっていた。薩摩と長州が手をにぎれば幕府は倒れる、というのは、たれしもが思った着想である。(中略)
しかし、しょせんは机上の空論で、例えば1965年の現在、カトリックと新教諸派が合併すればキリスト教の大勢力ができる、とか、米国とソヴィエト連邦が握手すれば世界平和はきょうにでも成るという議論とやや似ている。
龍馬という若者は、その難事を最後の段階でただひとりで担当した」
薩摩と長州は、20世紀における米ソであるという表現はすごくわかりやすいと思いますので、抜書きしました。
長州は、文久3年(1863)8月18日に公武合体派が尊王攘夷派を追放したいわゆる「8月18日の政変」や「禁門の変」以来、薩摩を不倶戴天の敵と見なしていました。その両藩が同盟するということは、20世紀においてアメリカとソ連を同盟させるに等しい至難の業だったのだと司馬遼太郎書いています。
それでは、その至難な同盟がどのようにして実現したか、簡単に書いていきます。
【薩長同盟の発端は勝海舟】 薩長同盟のきっかけとなる方向性を坂本龍馬や西郷吉之助(隆盛)に指し示したのは勝海舟であると言われています。
勝海舟は、元治元年(1864)9月11日に西郷吉之助にあった時に、もはや幕府には政権を担当する能力がない、これからは薩摩等の雄藩が力を合わせて政治を行う時代だと思い切って西郷吉之助に伝えます。
これにより西郷吉之助は深く悟るところがあり、第一次長州征伐の総督参謀を務めることとなった西郷吉之助は、これ以後、意識的に長州に寛大な方針をとるようになりました。
勝海舟のこの考えが、薩長同盟のきっかけとなったと言ってよいかもしれません。
※上の勝海舟の銅像は墨田区役所の「うるおい広場」にあります。
【薩長同盟までの下地づくり】
しかし、仇敵同士の薩長両藩の接近をはかり、同盟まで進めた立役者は坂本龍馬です。坂本龍馬は、勝海舟が神戸に設立した海軍操練所の塾頭になりますが、海軍操練所が閉鎖されると活動のの拠点を失います。
そこで、薩摩の家老小松帯刀と西郷吉之助は、坂本龍馬を中心とする海軍操練所の人々を大阪の薩摩藩邸に引き取って彼らの航海技術を利用しようと考えました。
慶応元年(1865)、坂本龍馬は小松帯刀と長崎に行き、「亀山社中」を設立し海運事業を開始しました。
そして亀山社中の活動として、薩摩の力で購入した小銃等を、武器の購入を欲していた長州に運びました。
続けて坂本龍馬は、汽船ユニオン号を薩摩名義で購入し、長州に引き渡しました。
その代金は長州が支払いました。
一方薩摩の西郷は上京するにあたって下関で米を売ってくれるように長州と交渉するよう坂本龍馬に依頼しました。これに対して長州は快諾しました。
こうした実績を積み重ねていく中で両藩は次第に接近していったのです。
【薩長同盟成立前日の動き】
慶応元年には、いよいよ第2次長州征伐が開始されようとしていました。このような時期にふたたび坂本龍馬は、薩摩と長州に同盟を働きかけました。
龍馬の説得に応じて、桂小五郎は京都に向かいました。
しかし、龍馬が遅れて、慶応2年(1866)1月20日に京都に入ると、桂は帰り支度をしていました。
西郷らは桂を歓待するが、同盟の話は一向に口にしないので、桂は帰ろうとしていたのです。
坂本龍馬はあまり怒号を発したことはなかったそうですが、この時ばかりは非常に怒ったと言われています。。
坂本龍馬は、桂を説得し、次いで西郷を説いて、薩摩側から同盟の話を持ち出すようにして、1月21日の会談がセットされて、ついに、薩長同盟が結ばれたのでした。
【ほくそ笑む勝海舟】
豊田穣の「坂本龍馬」によると、勝海舟は愛弟子である坂本龍馬の成功にほくそ笑んだそうです。
そして海舟は氷川日記(慶長2年2月1日)に次のように書いているそうです。
「薩、長と結びたりと言う事。実なるか。坂竜、今長に行きて是等の扱いを成すかと。左(さ)もこれあるべくと思わる」
勝海舟の喜んでいる姿が目に浮かびます。
こんな大事をした坂本龍馬に幕府の捕吏の手が近づいていました。明日はそのお話です。
上記の坂本龍馬、小松帯刀、西郷隆盛の写真は、「国立国会図書館蔵」です。

