数寄屋橋は、昭和の時代に「君の名は」で有名になりましたが、JR有楽町駅銀座口から2分のところにあります。
数寄屋橋門は、有楽町マリオン付近にありました。
数寄屋橋門は初め芝口門と言っていましたが、宝永7年(1710)、芝口門を新たに築くにあたり数寄屋橋門と改めたと言われています。
数寄屋橋門は寛永6年(1629)に仙台藩主伊達政宗により築かれました。
数寄屋橋門という名前は、織田信長の弟の織田有楽斎(うらくさい)長益の数奇屋屋敷があったからと言われ、有楽町の名前も有楽斎からきているとよく言われます。しかし、異論もあるようです。
学術的にはそうかもれしれませんが、通説のほうが納得感があります。
数寄屋橋門は南に高麗門、西に渡櫓門がある、左折枡形門でした。
現在高速道路が通っている所が外濠でした。その外濠を渡る部分が数寄屋橋で、その内側にあたる、現在は晴海通りと有楽町マリオンになっている場所近辺に数寄屋橋門がありました。
数寄屋橋は、高速道路建設に伴い昭和33年に取り壊されました。
「君の名は」の作者菊田一夫の「数寄屋橋此処にありき」と書かれた「数寄屋橋の碑」が、道路脇の数寄屋橋公園にあります。
この碑の石材は数寄屋橋の石を利用したものだそうです。
【南町奉行所】
数寄屋橋門内には、南町奉行所がありました。
宝永4年(1707年)に常盤橋門内にあった奉行所が、数寄屋橋門内に移転してきてから南町奉行所と呼ばれるようになりました。
南町奉行には有名な大岡越前守忠相がいます。
南北町奉行というのは、奉行所の所在地が南にあるか北にあるかの違いで、江戸の町を南北に分けて管轄したわけではありません。訴訟等は毎月交代で担当しました。これを月番と言います。
南町奉行所跡は、現在、有楽町マリオンや有楽町イトシアとなっています。
【イトシア展示コーナー】
有楽町イトシアは平成19年に開業した新しい再開発ビルです。
ここは、江戸時代に南町奉行所があった場所ですので、再開発に伴って埋蔵文化財の発掘調査が実施されました。
その調査では、石組の溝や井戸、土蔵の跡などが発見され、書物所の穴倉(地下室)から「大岡越前守様御屋敷」と書かれた札など貴重な資料が出土したそうです。
遺跡発掘の際に発見された穴倉を利用した展示コーナーがイトシアの地下1階に設置されています。
また、奉行所の石組材を利用した石のベンチも地下1階に作られています。