鍛冶橋門はJR東京駅八重洲南口から歩いて4分の鍛冶橋交差点近辺にありました。
鍛冶橋門は寛永6年(1629)に東北の諸侯により建設されました。
明暦の大火の時に焼失し、万治2年に再建されましたが、明治になって、明治6年に枡形が撤去されました。
現在の鍛冶橋交差点からJRの高架の間あたりにあったものと思われますが、鍛冶橋の説明板が鍛冶橋交差点の南西角に設置されています。
【現在の鍛冶橋交差点】
鍛冶橋門は、高麗門と渡櫓門が平行に設置された喰違枡形でした。また、枡形が外濠の中に出ている外枡形となっていました。
鍛冶橋門は門前が鍛冶町と呼ばれていたので、その名を取って鍛冶橋門と名づけられたと言われています。
この写真は、鍛冶橋交差点から西方面を撮ったものですが、現在は鍛冶橋門の面影はまったくありません。
写真中央奥に遠く見えるのが、東京国際フォーラムです。
【東京国際フォーラム】
鍛冶橋の門内には、土佐藩山内家の上屋敷がありました。
今話題の坂本龍馬は、江戸に修行に来ていて、上屋敷から千葉道場に通ったと、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」や豊田穣の「坂本竜馬」に書かれています。
ただし、坂本龍馬は上屋敷でなく、中屋敷に居たという説もあるようです。
その屋敷跡は、東京都庁となり、現在は東京国際フォーラムとなっています。
都庁が最初にここに設置されたのは明治27年でした(当時は府庁)。
そして、平成3年に都庁が新宿に移転し、現在は東京国際フォーラムとなっています。
【太田道灌像】
東京国際フォーラム内には、ここが都庁であった関係で、大田道灌の銅像があります。
この像は、ここに都庁舎があった昭和33年に設置されましたが、都庁の移転後、平成8年5月、ゆかりの深いこの地に復帰しました。以前と同様に旧江戸城を望んでいます。
銅像の製作者は朝倉文夫です。
この太田道灌像は実は2代目で、初代は第2次大戦中に供出されてしまいました。
初代銅像の製作者は朝倉文夫の実兄渡辺長男です。
つまり兄弟で2代の太田道灌像を制作したことになります。