鍛冶橋門外には、狩野探幽の系統の狩野氏、いわゆる鍛冶橋狩野家の屋敷がありました。 そこで、今日は狩野家関連の話題です。
【鍛冶橋狩野屋敷跡】
狩野探幽は狩野永徳の孫で、元和7年、探幽が20歳の時に鍛冶橋門外に約1000坪の屋敷をあたえられたことから、鍛冶橋狩野家と呼ばれました。
鍛冶橋狩野家は江戸切絵図を見ると、鍛冶橋の斜め前の内濠沿いに屋敷がありますが、道路も拡張されていることから、鍛冶橋交差点の角にある常陽銀行が入っている八重洲三井ビル付近にあったものと思われます。史跡説明板等も設置されていませんので、正確とはいえませんが、写真正面のビル近辺だと思います。
鍛冶橋狩野家は探幽の系統で名家ではありますが、この系統からは探幽以後見るべき絵師は出ませんでした。
【奥絵師と中橋狩野屋敷跡】
奥絵師の狩野四家とは探幽の系統の鍛冶橋家、木挽町家、中橋家、浜町家でした。
探幽の弟の尚信(次男)と三男の安信もそれぞれ独立しました。
尚信の系統は木挽町家と呼ばれ、安信の系統は中橋家とよばれました。さらに、尚信の孫の岑信(みねのぶ)が別家をたてて、浜町家と呼ばれました。
この四家が奥絵師と呼ばれました。奥絵師は旗本と同格で、将軍への「お目見え」と帯刀が許されました。
四家の中で、幕末にかけて、狩野派の主流となったのは、次男の尚信の系統の木挽町狩野家です。
狩野家の宗家は中橋狩野家でした。
中橋狩野家の屋敷は、鍛冶橋からそう遠くない大鋸町(現在、千代田区京橋1丁目)にありました。
現在は、ブリジストン美術館の裏側にある全国信用組合会館の付近が、中橋狩野家の屋敷跡と言われています。
【歌川広重住居跡】
その中橋狩野家の隣に歌川(安藤)広重が住んでいました。その住居跡の説明板が、東証コンピューターシステムの建物の脇にあります。
こちらは、中央区教育委員会が設置した説明板がありますので位置がわかりやすいです。
説明板の解説は次のようです。「浮世絵師歌川広重「安藤広重」(1797~1858)が、嘉永二年(1849)から死去までのおよそ十年間を過ごした住居跡です。
広重は、幕府の定火消組同心安藤源左衛門の長男として、八重洲河岸(現在の千代田区丸の内二丁目)の火消屋敷で生まれました。
十三歳のとき父母を失い、父同様定火消同心になりましたが、文化八年(1811)十五歳のとき歌川豊広の門人となり、翌年には広重の号を与えられ、歌川を称することを許されました。
天保三年(1832)霊岸島の保永堂から出した「東海道五十三次」以来、風景画家として著名になり、江戸についても、「東都名所」、「江戸近郊八景之内」等を遺しています。特に、晩年に描いた「名所江戸百景」は、当時大鋸町(京橋)と呼ばれていたこの地での代表作です。
住居は、幕府の奥絵師(御用絵師)狩野四家のうち、中橋狩野家屋敷の隣にあり、二階建ての独立家屋であったといいます。」
赤印が鍛冶橋狩野家屋敷跡、青が中橋狩野家屋敷跡、ピンクが安藤広重住居跡です。

