呉服橋門のそばにありましたので、今日は、この 「一石橋」 についてのご案内です。
【一石橋の名の由来】

一石橋が架けられた時代ははっきりしませんが、寛永年間(1624~1645)にはあったようです。
ところで、昔はメートル法ではなく、尺貫法でした。尺貫法での体積は、一升、一斗、一石と数えました。つまり、10升で1斗、10斗で1石でした。
江戸時代、この橋の北側は、金座です。そこの長官は後藤正三郎でした。そして南側には、御用呉服師の後藤縫殿之助の屋敷がありました。そこで後藤(5斗)と後藤(5斗)を足して10斗イコール一石ということで、一石橋になったと言われています。
江戸っ子はユーモアがありますね。
現在の一石橋は、平成9年に架け替えられたものです。その前の橋は、大正11年に架けられたもので、関東大震災の際にも壊れることはありませんでした。
架け替えの際に、その親柱を1本残しました。それが写真の親柱です。
「いっこくばし」と呼ばれるほうが多いのですが、橋柱には「いちこくばし」と刻まれています。
【迷い子知らせ石柱】一石橋の南たもとには、迷い子知らせ石柱と呼ばれるものがあります。
この石標は、江戸の町中で迷子になった子どもの情報を知らせるために使用しました。
安政4年(1857)に建てられたものです。
石の正面に「満(ま)よひ子の志(し)るべ」とあり、左側に刻まれた「たづぬる方」の部分には迷子の特徴を記した紙を貼り、右側に「志(し)らする方」には迷子の所在に関する情報を書き記した紙を貼りました。
迷い子知らせ石柱は人出の多い場所に建てられたようで、浅草寺境内と、湯島天神境内にもあります。
湯島天神のものは築造当時のものが残っています、浅草寺のものは戦災で壊れ、現在は復元されたものとなっています。
【八ツ見のはし】この一石橋はまた、「八ツ見橋」とも呼ばれました。
これは、この橋に立つと、東に日本橋と江戸橋、南に呉服橋と鍛冶橋、西に銭瓶橋と道三橋、北に常盤橋が見えました。これで7つの橋が見えることになります。そして自分の橋をいれると合計で8つの橋が見えることから「八ツ見橋」と呼ばれました。
歌川広重の名所江戸百景の中に、「八ツ見のはし」というのがありますが、一石橋を描いたものです。
左下隅の欄干の見える橋が一石橋で、絵のちょうど真ん中にあるのが銭瓶橋です。その橋の向こうには江戸城が見え、さらにその向こうには富士山が描かれています。
銭瓶橋や道三橋がかかっていた道三掘は明治42年に埋め立てられています。

