今日2月8日は、清河八郎の建言に基づき結成された「浪士組」が江戸を出発した日です。
浪士組は、2月4日に小石川伝通院の塔頭「処静院(しょじょういん)」で結成されました。そして、2月8日に、伝通院を出発して京都に向かったのでした。
伝通院は、家康の母「お大の方」や「千姫」の菩提寺でもあります。
東京メトロ丸の内線・南北線の「後楽園]4番出口から12分程春日通りを歩いて行くと右手にあります。
【清河八郎は庄内藩出身】 さて、浪士組の結成の中心となった清河八郎とはどんな人だったのでしょうか?
今日は、清河八郎が浪士組を結成するまでの経歴について書いてみよう思います。
清河八郎は、出羽国庄内藩領の清川村(現・山形県東田川郡庄内町)の郷士の斉藤豪寿(ひでとし)の長男として、文政13年(1830)に生まれました。本名は斉藤正明と言います。清河という姓は出身地清川にちなむものです。
弘化4年(1847)18歳の時に江戸に出て、それ以降、古学派の東条一堂や安積艮斎や昌平黌で学びました。
(左の清河八郎像は「清河八郎記念館」所蔵です。)
【玄武館で学ぶ】
清河八郎は、学問を東条一堂ほかに、そして剣を北辰一刀流の開祖千葉周作の玄武館で磨き中目録免許皆伝となりました。
その後、清河塾を開設し、北辰一刀流と学問を教えました。江戸市内で剣術と学問を一人で教える塾は清河塾だけであったそうです。
清河八郎が修行した「千葉周作先生玄武館跡、東条一堂先生瑤池塾跡の碑」が、都営地下鉄新宿線の岩本町駅A1番出口から徒歩1分の旧千桜小学校跡に設置されています。
坂本龍馬も、北辰一刀流を、千葉周作の弟千葉定吉の道場で学んでいました。
大河ドラマ「龍馬伝」の影響でしょうか。多くの人が碑を見に来ていました。
万延元年(1860年)に起こった桜田門外の変を契機に、清河塾に倒幕、尊王攘夷の思想を持った人たちが集まりだします。
【虎尾の会を結成】 そして、清河八郎を盟主とする「虎尾の会」が結成されます。参加者は山岡鉄太郎(鉄舟)他15名でした。
この「虎尾の会」のメンバーの一部が米国ハリスの通訳ヒュースケンを暗殺し、八郎の清河塾は幕府に監視されます。
しかも文久元年(1861)には八郎に罵詈雑言を浴びせてきた者を殺害したため、幕府に手配される身となってしまいました。
そのため、清河八郎は江戸を脱出し各地に潜伏していました。
【急務三策を建言】
そうした状況の下でも、文久2年(1862)に、時の幕府政事総裁(従来の大老にあたる役)の松平春嶽に急務三策(① 攘夷の断行、② 大赦の発令、③天下の英材の教育)を建言します。
尊攘志士に手を焼いていた幕府はこれを採用し浪士組が結成されることになります。そして、清河八郎は罪を許され自由な身となるとともに浪士組の中心メンバーとなります。
明日も「浪士組と清河八郎」について書きます。
今回、清河八郎の記事を書くにあたり、庄内町が作成しているホームページ「回天の魁士清河八郎」の記事を参考にさせていただくとともに管理人のAさんにいろいろ教えていただきました。 Aさんありがとうございました。
また、上記の清河八郎像は「清河八郎記念館」が所蔵しています。

