【浪士組、処静院で結成】浪士組が江戸を出発したのは2月8日ですが、浪士組は、それ以前2月4日に、小石川伝通院の塔頭処静院(しょじょういん)において結成されました。
浪士組の山岡鉄舟と親しかった処静院の住職が結成のための場所を提供したと言われています。
浪士組は、当初は50名を定員としていましたが、清河八郎の仲間の勧誘もあって、最終的には234名の浪士が集まりました。
鵜殿鳩翁(うどのきゅうおう)が頭取、山岡鉄太郎(鉄舟)ら2人が取締に任ぜられ、清河八郎は黒幕に徹しました。
処静院は現存せず、文京区教育委員会の設置した説明板があるのみです。これによると、現在の伝通院の西側にあったようです。
【近藤勇、浪士組に参加】浪士組の中には、のちに新撰組を結成する芹沢鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司なども入っていました。
近藤勇は、武州多摩郡上石原村に生まれ、天然理心流宗家近藤周助の養子となり、小石川小日向柳町で、「試衛館」という道場を構え天然理心流剣法を教えていました。
近藤勇たちは、浪士組は将軍家茂の警護が役目で、さらに幕臣取立ての道も開かれていると聞いて、浪士組への参加を決めたのでした。
←近藤勇像「国立国会図書館蔵」

【試衛館跡】
試衛館跡の説明柱が、地下鉄大江戸線「牛込柳町」駅東口から5分のところにあります。
元は、幕府の棟梁であった甲良屋敷であったそうです。試衛館は、甲良屋敷の一角を借りて構えていました。
広さ30畳ほどの小さな道場であったようです。
【清河八郎の真の目的】さて、江戸を2月8日に出発した後、浪士組が京都に到着したのは2月23日です。
その夜、清河八郎は浪士たちを壬生の新徳寺に集め本当の目的は将軍警護でなく、尊王攘夷の先鋒にあると当初の目的とは正反対になる目的を述べます。
そして、朝廷に建白書の受納を願い出て幸運にも受理されました。
このような浪士組の動静に不安を抱いた幕府は浪士組を江戸へ呼び戻します。
浪士組は3月13日に京をたち江戸に向かいます。
←清河八郎像 「清河記念館蔵」
この時、江戸に戻ることに反対し京都に残ったのが、芹沢鴨、近藤勇、土方歳三などでした。
そして、彼らは「新撰組」を24名の隊士で結成することになります。
近藤勇や新撰組については、また別の機会に紹介しようと思います。
【八郎の最後】
清河八郎は江戸に戻った後、浪士組を動かし攘夷を実行しようとしますが、京都で完全に幕府と対立したため命を狙われるようになりました。文久3年4月13日、上山(かみのやま)藩邸を訪ねた帰り道で、幕府の刺客佐々木只三郎など6名によって麻布一ノ橋で討たれました。
清河八郎暗殺は、老中板倉勝静(かつきよ)が企んだという説もあります。
清河八郎の首は、山岡鉄舟の家に保管され、その後、伝通院の塔頭の処静院に葬られたそうです。
現在、清河八郎の墓は、伝通院の墓地にあります。墓碑銘は、山岡鉄舟の筆によるものとのことです。
清河八郎が死んだ後、浪士組は新徴組と改名され、庄内藩預かりとなり、幕府瓦解まで続きました。

