神田橋門は、古くは江戸六口の一つで、芝崎口、神田口と呼ばれました。
【別名 大炊橋門】 神田橋門は、門内西側に土井大炊頭利勝の屋敷があったので、寛永年中までは大炊橋門といいましたが、その後に神田橋門に改めました。
江戸名所図会でも「大手より神田への出口に架(わた)す御門あり。昔、この地に土井大炊候の第宅(ていたく)ありしゆえに、大炊殿橋とも号したるとなり。この御門の外の町をすべて神田と号(なづ)く。」と書いています。
【警備は厳重】
ここから 常磐橋までの石垣は大阪冬の陣の起こる前の構築ですが、神田橋御門は、寛永6年に高麗門と右折枡形が、東北諸侯により築かれました。「神田橋御門 は、将軍が上野・寛永寺に参拝するための御成道でもあったので、非常に警備が厳重であったという
江戸時代の神田橋は、現在の橋より少し東に架けられていたとのことです。現在の神田橋は大正14年に架けられたものです。
【鎌倉河岸】 江戸時代は物の輸送の多くは水運に頼りました。河岸とは、物資の運搬輸送のために、河川などに造られた船着場や荷揚の施設を指します。
鎌倉河岸は神田橋のすぐ近くにありました。
家康が江戸城に入城した頃から、この付近には多くの材木や石材が相模国から運び込まれ、鎌倉から北材木商が築城に使う建築部材を取り仕切っていたそうです。
そこから、鎌倉河岸と呼ばれるようになりました。
神田橋交差点近くに、鎌倉河岸と鎌倉町についての説明板がありました。
【物揚場跡】 これは神田橋の交差点の南東側にある「物揚場跡」の碑です。
河岸には、町屋敷に付属したものは「荷揚場」といい、武家屋敷に付属したものは「物揚場」という説もあるようです。その説によれば、ここは武家屋敷にあったものなのでしょうか!

