まずは桜田門外の変から取り上げます。
安政7年(安政7年3月18日に万延に改元)3月3日に、桜田門外の変が起きました。
水戸浪士17名と薩摩藩士1名の合計18名により時の大老井伊直弼が暗殺されたのです。
そこで、今日から数回にわたって井伊直弼について書いていきます。
今日は、井伊直弼の彦根藩藩主になるまでの青年時代について書いていきたいと思います。
【14男で父50歳の時の子供】
左の井伊直弼銅像は、彦根市の玄宮園に隣接する金亀児童公園にあるものです。井伊直弼は、文化12年(1815)、彦根藩第11代藩主・井伊直中の14男として、彦根場内の「槻(けやき)御殿」生まれました。幼名は鉄之介、後に通称は鉄三郎といいました。
父の直中は歴代の藩主の中で名君の一人に数えられた人物です。
直弼が生まれたときには、父の直中は50歳で、すでに家督を長兄の直亮(なおあき)に譲っていました。
【槻(けやき)御殿】
直弼が生まれた槻御殿は4代の直興が、藩主の家族が生活する下屋敷として延宝5年(1677)に建てたものです。
現在は建物部分が楽々園、庭園部分が玄宮園と呼び分けられています。建物には、当時としては珍しい耐震構造の「地震の間」と呼ばれている部屋があります。
直弼は、父がここで隠居していたため、ここで生まれたのです。
直弼は、ここでいろいろな学問・技芸をみにつけていたが、17歳のときに、父直中がなくなったため、この御殿を出て、尾末町屋敷に住むことになり、「部屋住み」生活が始まりました。
【直弼だけが部屋住み】
井伊家の家風では、嫡子以外の子は、他の大名家を継ぐか家臣の家を継ぎ、そうならない者は部屋住みとして、わずかな宛行扶持(あてがいぶち)で生活するのが通例でした。
直弼の兄弟で言うと、直中には15人の男子がいましたが、3男の直亮が藩主となり11男の直元が世子となっていました。
そして、7男直教が豊後岡藩、8男直福が三河挙母藩、9男勝権下総多古藩、8男直福の跡を継いだ13男直与がそれぞれ大名家を継ぎました。その他、6男、10男、12男が家老家を継ぎました。長男、次男、4男、5男は若くしてなくなっています。
このため、直中が死んだ時点で、残されたのは14男の直弼と15男の直恭だけでした。
その4年後の天保5年(1835)、弟の直恭が、日向延岡藩の養子となるの及んで、部屋住みとして残されたのは直弼ただ一人でした。
そこで、直弼は一生を埋木で朽ち果てることを覚悟し、住まいを「埋木舎(うもれぎのや)」と名づけます。
そして、17歳から32歳まで15年間「埋木舎(うもれぎのや)」で暮らすことになります。

