今日は、直弼が世子となり、藩主となり、さらに大老に就任するまでを書いていきます。
【直弼、藩主になる】
井伊直弼は、直亮の世子である直元が弘化3年(1846)に病死したため、部屋住みから一躍世子となりました。
そして嘉永3年(1850)には、兄である藩主直亮がなくなったため、13代彦根藩藩主となりました。
藩主となった直弼は、藩校の弘道館の改革に取り組み領内の巡視も熱心におこないました。
また、ペリー来航後の政局の中で、溜間詰筆頭として積極的に発言をしていきました。
【直弼、大老に就任】
そして、安政5年(1858年)4月松平忠固(ただかた)や水野忠央(紀州藩付家老)ら南紀派の政治工作により直弼は幕府の大老に就任します。
この大老就任にあたっては将軍家定の意向が強く働いていると言われています。
堀田正睦は通商条約の締結にあたり、条約締結の反対者をおさえるために朝廷の勅許を得れば良いとして、京都に上って朝廷に対して裏工作を行いますが失敗します。
この為、江戸に戻って将軍家定に不首尾を報告し辞任するにあたり、越前藩主松平春嶽へ大老を仰せ付けるよう将軍に伺ったところ、将軍家定は「家柄といい、人物といい彦根を差し置き越前を大老にする筋のものではない。井伊掃部頭に大老を仰せ付けるように」と言ったと記録されています。
家定がそう言った背景には老中松平忠固(ただかた)が紀州藩の家老水野忠央(ただなか)と気脈を通じて家定の実母本寿院などの大奥へ対して行った工作があると言われています。
これは紀州徳川家の慶福(よしとみ)を将軍家定の継嗣にするためには、南紀派の井伊直弼を大老にするしか方法がないと考えてのことと言われています。
【直弼は実力派大老】
井伊直弼は、将軍家定から大老職を命ぜられます。しかし、老中首座の堀田正睦に大老職を御免こうむりたいと申し出ます。しかし、堀田正睦と松平忠固が就任するよう勧めました。しかし、それでも直弼は固辞しましたが、再度の上意があり、就任することになったとも記録されています。
大老は幕府最高の職であり、非常時に老中の上に置かれる職で、通常は日常的な政務には関与しない職でした。
しかし、条約勅許と将軍継嗣という難問に直面していた幕府では、井伊直弼は日常的な政務にかかわらざるを得ませんでした。
また、前述した就任の経緯から、井伊直弼は、形ばかりの大老ではなく、幕末の政局を左右する力を持つことになりました。
このため、井伊直弼は、将軍継嗣と条約勅許という二大問題に自ら取り組むこととなります。
明日から、この二大問題について取り上げます。