安政7年3月3日に桜田門外で大老井伊直弼が暗殺されました。今日、桜田門外の変のことを書くのが良いのですが、今日は井伊直弼が取り組まなければならなかった二大問題のうちの将軍継嗣問題について触れてみます。 桜田門外の変の当日の動きは後日書きます。
【幕府の二大問題】
井伊直弼が大老に就任した頃の徳川幕府は、内外に二つの大きな問題を抱えていました。
それは、内に将軍継嗣問題であり、外にはアメリカ合衆国のハリスによる通商条約の締結という問題です。
井伊直弼は、大老としてこの二大問題に取り組まざるをえませんでした。
今日は二大問題のうちの将軍継嗣問題について書いてみます。
将軍継嗣問題とは、13代将軍家定は実子がいなかったうえ、その体力が不安視されていたため、後継者の確定が急がれた問題です。
【後継候補は慶福と慶喜】
将軍の後継者の候補は2人いました。一人は紀伊藩主徳川慶福(後の徳川家茂)で、もう一人は水戸の徳川斉昭の七男で御三卿の一橋家を相続していた一橋慶喜です。
徳川慶福は、11代将軍家斉の孫になります。
13代将軍家定も家斉の孫になりますので、慶福は家定の従兄弟になります。血統の近さでは慶福になります。ただ年齢が10歳にも達しなかったので幼すぎるという弱点がありました。
一方、一橋慶喜は17歳で英明との評判が高く、12代将軍家慶も一時後継者にと考えたことがあると言われています。
血縁的には8 歳ながら将軍家定の従弟の慶福、能力や年齢を考慮すれば17歳の慶喜ということになります。
右写真は徳川慶喜(国立国会図書館蔵)
【南紀派、一橋派】
徳川慶福を推す人々を南紀派、一橋慶喜を推す派を一橋派と呼びました。
慶福を押すのは、溜間詰を中心にした譜代大名であり、井伊直弼を筆頭としていました。また、大奥も水戸の徳川斉昭を嫌っていたことから、実子である一橋慶喜が後継になることを喜びませんでした。
一橋慶喜を押すのは、家門の松平慶永や外様雄藩の島津斉彬、伊達宗城、山内豊信(容堂)などでした。 そして慶喜の実父の水戸斉昭も当然一橋派です。
一昨年の大河ドラマの主人公天璋院篤姫が家定に輿入れしたのも、慶喜を将軍後継者にしようという密命を帯びたものだったという説もあります。
写真は松平慶永(国立国会図書館蔵)
【後継は慶福(のちの家茂)】
一橋派は朝廷にも働きかけ、将軍継嗣は英傑・人望・年長の三条件を揃えた人物が望ましいとする朝廷の内意を受けるところまで行きました。
しかし、井伊直弼が大老に就任したことによって急速に徳川慶福に決定する動きとなります。
井伊直弼が大老に就任(4月23日)してまもなくの5月1日に、大老や老中は将軍家定から紀州徳川慶福を後継とすることに決意した旨を申し渡されました。
こうして、将軍の継嗣は徳川慶福にする内定しましたが、直弼は直ちに発表するのは避けました。
正式に発表されたのは、朝廷の返書が届いた後の6月25日でした。
こうして将軍の後継は徳川慶福(のち家茂)に決したのでした。