井伊直弼が大老に就任した時期、将軍継嗣問題のほか条約勅許問題も重大な問題でした。
今日は、その条約勅許問題について触れていきます。
米国総領事として赴任したタウンゼント・ハリスは、赴任当初から通商条約の締結を強硬に主張してきたため、通商条約調印やむを得ずと考えた老中堀田正睦は孝明天皇の勅許を得て世論を納得させた上で通商条約締結をしようと考えました。
【堀田正睦、勅許に失敗】
そのため、堀田正睦は自ら京都へ向かい条約勅許に尽力しました。
正睦は比較的簡単に勅許が得られるものと考えていました。
しかし、孝明天皇が極端な攘夷論者であるうえに公卿も多くが排外主義者であり、さらに梅田雲浜などが攘夷思想を吹き込でいたため、勅許獲得は失敗に終わり、再度御三家以下の諸大名の意見を聞いたうえで願い出るようにとの勅錠が出されました。
そして、失意の堀田正睦が江戸に戻った3日後の4月23日に、井伊直弼が大老に就任しました。
【諸大名の意見を聞く】
井伊直弼は、4月25日に諸大名を登城させ再び意見を求めることとしました。
一方、ハリスには条約調印の時期を延期するよう折衝させ調印期日を7月27日としました。
調印時期を延期したため、諸大名からの意見答申を集める期間を稼ぐことができ、6月はじめには諸大名からこの際やむをえないという意見が多く寄せられましたが、水戸藩や尾張名古屋藩の意見は調印反対という意見でした。
【ハリス、調印を急ぐ】
そうした情勢の時、当初7月27日調印を了解していたハリスが急遽、横浜小柴沖(八景島周辺)に現われ調印を急ぐよう要求してきました。
これはハリスが、中国においてアロー号事件をきっかけに清と戦争中のイギリスとフランスが大勝したという情報を手に入れたためであり、ハリスはイギリスやフランスが過大な要求をする可能性を指摘してそれを防ぐにはアメリカと通商条約を結ぶほかないと交渉を急ぎました。
【直弼、やむえず調印許可】
井伊直弼は、当初は勅許を得ずして条約を調印することに反対しましたが、堀田正睦や松平忠固は即時調印の考えで他の老中は調印延期の考えでした。
そこで、直弼は調印の延期を交渉するよう指示しますが、「是非におよばない節には調印してもよいか」と交渉担当の下田奉行井上清直から問われたため、井伊直弼は「その節は致し方ない。調印してもよい」との内諾を交渉担当の井上清直と目付の岩瀬忠震に与え、孝明天皇の勅許がないままの条約調印に踏み切りました。
調印は横浜小柴沖のポーハタン号上で行われました。日本側代表は井上清直と岩瀬忠震で、アメリカ側の全権はハリスでした。
こうして、安政5年(1858年)6月19日、大老井伊直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約を締結したのです。