今日は、直弼と一橋慶喜、松平慶永(春嶽)、徳川斉昭らの一橋派とのやりとりを中心に書いていきます。
まず、条約調印後まもなくの6月23日に老中堀田正睦と松平忠固が罷免されました。
堀田正睦は一橋派になったことと条約調印の責任をとらされて、松平忠固は井伊大老と権勢を争うようになったため罷免されたといわれています。
堀田正睦の替わりに老中首座は越前鯖江藩主間部詮勝がなりました。間部詮勝は後に安政の大獄の中心人物の一人となります。
【慶喜と直弼の会談】
6月23日には、徳川慶喜と井伊直弼が初めて会いました。
御三卿は本来は将軍家の家族であり政治には無縁の存在なのですが、一橋慶喜は井伊直弼の違勅を責めました。
慶喜は直弼が勅許を得ずに調印したことと朝廷への報告を手紙で済ませたことに対して天皇への軽蔑であるとして非難しました。
それに対して、直弼は一言も反論せず両手をつき頭を下げたまま「恐れ入りたてまつります」とだけ繰り返しました。
直弼は言質をとられないように、弁舌が優れていたといわれる慶喜がいくら非難しても「恐れ入り奉ります」とのみ繰り返しました。
慶喜は得るものを得られず下城せざるをえませんでした。
(慶喜の写真は国会図書館蔵)
【慶永と直弼の会談】
また松平春嶽も6月24日、井伊大老を屋敷に訪ね、違勅の件を詰問するとともに将軍継嗣の発表を延期するよう申し入れます。
しかし、議論の結論が出ないうちに直弼が登城する時間となり、直弼は慶永を振り切り登城をします。
慶永はやむえず井伊邸を出て、直弼の後を追い登城しました。
(松平慶永の写真は国会図書館蔵)
【御三家の不時登城】
一方、24日に徳川斉昭も尾張徳川慶恕(よしくみ)と水戸の徳川慶篤とともに登城日でないのに登城しました。いわゆる不時登城です。
江戸城への登城は大名により日にちが決まっていて臨時に登城する場合には許可が必要ですが、斉昭らは許可なく登城しました。
これは、表向きは井伊大老の勅許をえずに条約を調印したことに対する非難のためでした。
しかし、本当の狙いは、徳川慶福が将軍継嗣となることを阻止するため、継嗣発表の延期や変更という狙いがあったとも言われています。
両者の間で論戦が始まると、斉昭たちの主張は直弼や老中たちに論破されてしまいます。
そこで、斉昭は松平慶永を呼べと言いますが、慶永は家格が違うことから同席することができず、斉昭らは最後は退出するしかありませんでした。
このように一橋派の攻撃ををかわした井伊直弼は、その翌日の6月25日に将軍継嗣は徳川慶福であることを正式に発表しました。
そして、不時登城した人々を処分しました。
すなわち斉昭は急度慎と書信往復の禁止、慶篤は登城停止、慶永には隠居と急度慎、一橋慶喜に登城禁止という厳しい処分が下されました。