これについては、井伊直弼も相当の覚悟をもって調印したと思われます。
その事情について、駒沢大学教授であった吉田直吉氏は、「人物叢書 井伊直弼」の中で次のように書いています。
直弼には、あえて違勅の罪を犯してまで条約の調印をしたのには、それだけの信念があった。
それは海外諸蕃の形勢を考察し、いわんや英仏艦隊数十隻来航して条約の締結を迫るという非常事態に際して、これを拒絶して国体を辱めるか、勅許を待たないで条約に調印して国体を全うするか、二者その中の一つを選ぶべき場におかれた時、為政者としてとるべき道はおのずから明らかであろう。
海防・軍備の充分でない現在、しばらく彼の願意を取捨して、害のない方を選ぶことに直弼は決心したのである。
直弼にこのような一大決心をさせた背後には、大政は幕府に委任されているから、政治をとる者は臨機応変の手段がなくてはならぬとする、幕府政治の基本的な考えがあったことを知るべきであろう。
そして直弼も勅許を待たない調印には反対であったが、あえてこれを侵す重罪は一身で甘受するといっており、この悲壮な覚悟のうちに、やむなく無断調印せざるをえなかったのである。
以上が吉田氏の考えです。
井伊直弼に対する評価は、違勅の臣としての厳しい評価がされることが多いのですが、吉田氏のこうした考えも踏まえて評価してみる必要を感じます。
こうした思いが出てきたのは、先日お話をうかがった「埋木舎」の所有者の大久保治男氏の影響かもしれません。