この安政の大獄が結果として井伊直弼の命を奪うことになります。
【朝廷内で強まる攘夷意見】
条約調印に対して、孝明天皇も激怒して、6月28日には譲位の意向を示しました。
そして8月8日には、いわゆる「戊午(ぼご)の密勅」が水戸藩に下されました。
さらに、朝廷内部でも佐幕派公卿と尊攘派公卿とが対立し、9月には関白九条尚忠が辞任申し出をするという事態になります。
これらの動きの背景には、尊攘派の梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎らの働きかけがありました。
右の写真の人物が梅田雲浜です。国立国会図書館が所蔵しています。
【戊午の密勅がきっかけ】
大獄のきっかけとなった、戊午の密勅(ぼごのみっちょく)は安政5年(1858)8月に孝明天皇が水戸藩に勅諚を下賜した事件です。
「戊午」とは安政5年の干支が戊午(つちのえうま)であったことに由来します。
密勅は水戸藩京都留守居役鵜飼吉左衛門に下り、吉左衛門の子 鵜飼幸吉の手によって水戸藩家老安島(あじま)帯刀を介して水戸藩主徳川慶篤に伝えられました。
幕府には数日後に禁裏付の大久保忠寛を通じて伝えられましたが、江戸より先に水戸に届くことを計った時期に伝えられました。
水戸藩以外の御三家、御三卿などには秘匿されていたが、写しは関白以外の公卿を通じて縁のある大名に送付されました。
水戸藩に勅諚が下がったことは、先例を破る異例の出来事でした。
こうした事態は、幕藩体制の秩序を破壊することですので、井伊直弼は、秩序を維持するために、勅諚を下すために動いた公卿や水戸藩士などの密勅に関係した人々の弾圧に踏み切りました。
これが安政の大獄です。
【安政の大獄で処罰された人々】
安政の大獄では多くの人が処罰されています。
公家では、右大臣鷹司輔煕(すけひろ)、左大臣近衛忠煕(このえただひろ)を辞官落飾、前関白鷹司政通、前内大臣三条実万(さねつむ)を落飾させ、青蓮院宮、中山忠能(ただやす)らを慎に処しました。
大名では、斉昭を水戸で永蟄居、一橋慶喜を隠居・慎に処するなど命じました。
志士以下の処罰者の中で斬罪となった人は次の人たちです。
•橋本左内………越前藩士、斬罪 (右写真、国立国会図書館蔵)
•頼三樹三郎……京都儒者、斬罪
•吉田松陰………長州藩士、斬罪
•安島帶刀(あじまたてわき)………水戸藩家老、切腹
•鵜飼吉左衛門…水戸藩京都留守居、斬罪
•鵜飼幸吉………水戸藩家臣(吉左衛門の子供)、獄門
•茅根(ちのね)伊豫之介…水戸藩右筆頭取、斬罪
•飯泉(いいずみ)喜内… 元土浦藩藩士、斬罪
大獄の目標は水戸藩にあったので、水戸藩関係者が多くかつ厳しい処罰となっています。
この他、元小浜藩士の梅田雲浜は、9月7日に最初の逮捕者として逮捕され、獄中で死亡しました。
また、このとき梁川星厳も逮捕されるはずでしたが、数日前にコレラで死亡していました。
【苛酷かどうかはむずかしい問題】
こうした安政の大獄を実行したことで、井伊直弼は苛酷な弾圧者であるという評価があります。
しかし、これについて、小西四郎氏は、中公文庫「日本の歴史 開国と攘夷」の中で次のように書いています。
大老井伊直弼個人の心境としては、この程度の断罪を、そう過酷のものとは思っていなかったであろう。かれはいやしくも幕府の大老である。徳川家の独裁権力を維持するのが念願であり、公卿や外様大名が幕政に口をはさむことは我慢のならないことであった。そのような上層支配者ならばともかく、軽々たる陪臣や浪士・儒者などが、大将軍家の継嗣や政治向きについて発言するなどはもってのほかの僭上の沙汰と考えた。
多くの人々は、断罪の苛酷さを井伊直弼を攻撃する一材料とする。しかし、それを苛酷であるとするかどうかはむずかしい問題である。わたくし自身としては、この措置をそう苛酷のものとは思わない。