実行した人々の大部分が水戸藩の関係者であったのには、理由があります。
今日はその話をしたいと思います。
【幕府、勅錠返納するよう水戸藩へ圧力かける】
安政の大獄は、水戸藩への戊午の密勅(ぼごのみっちょく)が下されたことが大きなきっかけとなっており、断罪された人たちも圧倒的に水戸藩関係者でした。
安政の大獄の処罰が一段落した後も、幕府は、問題の勅諚を返納させるために、水戸藩に圧力をかけてきます。
まず、幕府は水戸藩から勅錠を返納させるために、関白九条尚忠を動かして返納を命じる勅錠を出させ、安政6年(1859)12月10日に京都所司代が受け取りました。
そして、12月15日、井伊直弼は、江戸城内で徳川慶篤に対して勅錠を返納するよう伝えました。
さらに、翌日、若年寄安藤信睦(のちの老中安藤信正)は、小石川の水戸藩邸に赴き勅錠を朝廷に返納させるべく水戸藩に圧力をかけました。
しかし、水戸藩では、勅錠は水戸の祖廟に納めてあったので、即時に返納することはできませんでした。
そこで、徳川慶篤は水戸にいる斉昭に状況を伝え勅錠を取り寄せ返納することとしました。
水戸藩では、鎮派とよばれた人たちは、勅諚を返納しようと考えますが、激派と呼ばれる人たちは、返納に反対します。
【返納反対派は長岡に頓集】
12月25日には、水戸藩が勅錠の返納を決定し、藩内に布告しました。
これに対して返納に反対する激派は、勅諚が鎮派によって密に持ち出されるのを防止しようと、江戸に通じる水戸街道の長岡宿(茨城県東茨城郡茨城町)に集まり、往来する人々を改めるという挙に出ました。
水戸藩は長岡勢を鎮定しなければ勅錠の返納もおぼつかないと考え、斉昭も長岡勢を鎮圧することを決意し2月15日には諭書を下しました。
2月18日には、水戸藩が長岡の激派の首領である高橋多一郎や関鉄之介を召還しようとしますが、既に藩を脱走していました。
2月20日に、長岡の激派は解散しますが、一部は江戸に出奔し、金子孫二郎や関鉄之介も江戸に潜入します。
そして、3月1日に金子孫二郎や関鉄之介たちが、日本橋の料亭に会合し、3月3日に桜田門外において井伊大老の登城時に襲撃することを決定しました。
そしてこの人たちが、3月3日に、桜田門外で井伊直弼を襲うことになります。
【左近の桜】
今日は記事にあう適切な写真がありませんでした。
そこで、水戸偕楽園の左近の桜をお見せします。左近の桜の後ろに見えるのが好文亭です。
左近の桜は、斉昭夫人登美宮(有栖川宮織仁親王の九女)が降嫁する時、時の仁孝天皇から下賜されましたが枯死してしまい、現在の桜は、京都紫宸殿の左近の桜の根分けのもので、昭和38年3月宮内庁より頒布されたものを植えたのだそうです。
左近の桜は山桜の一種で、花より先に葉が出ます。