「井伊直弼と桜田門外の変」の最後に、井伊直弼ついての評価が書かれた文を紹介して、このシリーズを終わります。
本からの紹介ですので、ちょっと読むのが大変かもしれませんがお付き合いください。
まず、最初は、江戸文化・風俗の研究家として有名な三田村鳶魚の「井伊大老の家族」の中から紹介します。
これは中公文庫の「鳶魚江戸文庫16 大名生活の内秘」の中に載っています。
【水戸・彦根両側からみる必要がある】
「(井伊直弼については)今日でも、水戸の天狗連の系統に属する文書を資料として、薩長諸家の主張を解説にする。それと反対の資料、反対の解説を聴いたら、何となる。また、両端を叩けばどんな音がするか、何人も考慮したほうがよい」
と書いて、後段に次のようなエピソードを紹介しています。
「質素な生活を忘れられない中将(井伊直弼)は、顕栄な地位につかれての後も、手ずから柚子味噌を拵(こしら)えることがあった。それへ『御礼之儀は申上置候』という書付を添えて、度々臣下に与えられた。
いささかの物でも、君公からの拝領といえば、家来の栄誉でもあり、主従の礼として、一々お礼言上に出なければならない。ここを察して、御礼済の書付を添えて下さる。それで別段お礼に出なくても済んだ。
一通(側近の三井孫太夫のこと)はお手製の柚子味噌を頂戴することから思い付いて、八月朔日の式日出仕に、自分の畑の大カボチャを、縄からげで奥へ提(ささ)げ込み、手作りのカボチャというので献上した。
中将はすぐに『八朔や もろたかぼちゃの 礼をさき』と書いて与えられた。式日の御礼口上よりも先へ、この方からカボチャの礼をいうぞ、という心持ちで、親しくもあり、いかにも気軽な様子がよく現われている。
こうしたこぼれ話によって、大老在職中、忙しく険しい間にも、豪も鋭いところがなかったのが知れよう。」
最後に、東京大学名誉教授小西四郎氏の井伊直弼評を書いておきます。
小西四郎氏は、中公文庫「日本の歴史19 開国と攘夷」の中で、次のように述べています。
【吉田松陰斬首が悪評の原因】
「井伊直弼を、外国に屈して違勅調印をおこない、安政の大獄を起こして勤皇の志士を殺した悪逆無道の人間であるというような批判攻撃はどうであろうか。
あるいはそれほど強い表現ではないにしても、井伊直弼に対する非難の声は高い。
しかし、わたくしは、そうは思わない。当時の志士は、たしかに井伊を悪逆無道の人間と考えたであろう。だが現在のわたくしたちは、もっと客観的に人物を観てゆかなければならないのではなかろうか。
遺勅調印にしても、天皇の意思を絶対視する考えのうえからの発想であり、王政復古史観・皇国史観の立場からいえば、そのような批判も生まれてくるであろう。勤皇志士の弾圧も同様である。
とくに吉田松陰を殺したことが、井伊直弼批判の声を大きくさせていると思う。
その教育を受けたものが、明治天皇制下の元勲となり、長州藩閥が形成されたとき、恩師松陰を殺した井伊直弼は、極悪人ときめつけられ、それに対する反論は封ぜられた。
わたくしをして言わしむれば、吉田松蔭を殺したことで、直弼はどんなに損をしたかしれない、遠島ぐらいにしておけば、それほど非難はされなかったのではないだろうかと。」
最後までお読みいいただきありがとうございました。