3月3日は五節句の一つである上巳の節句であり、大名の登城日でした。
安政7年の3月3日に桜田門外の変が起きました。 この日は、大雪でした。新暦でいうと3月24日ですので、春には珍しい大雪ということになります。
【土蔵相模で訣別の宴】
3月1日の決定を受けて、水戸浪士たち18人の実行部隊は、決行の前日の3月2日夕刻、品川の土蔵相模に集合し訣別の宴を開きました。
「土蔵相模」とは、食売(めしもり)旅籠の「相模屋」のことで、外壁が土蔵のような海鼠壁(なまこかべ)でしたので、「土蔵相模」と呼ばれました。
桜田烈士の決別の宴のほか、高杉晋作たちの英国公使館焼き討ち事件の密議の場所にもなった「土蔵相模」は、惜しくも昭和52年に壊されて、現在はマンションが建っていて一階がコンビニエンスストアーになっています。 コンビニの前の通りが、旧東海道です。
【愛宕神社に集合】
3月3日早朝、土蔵相模を出た実行の人々は、愛宕山の愛宕神社に集合します。
現在、愛宕神社の社殿前には、「桜田烈士の碑」が建てられています。
桜田烈士とは次の18人の人々です。
水戸浪士17人
関鉄之介(現場総指揮 戦闘不参加)、岡部三十郎(検視見届役 戦闘不参加)、斎藤監物(神官、戦闘不参加の予定だったが戦闘に参加) 、稲田重蔵、山口辰之介、鯉淵要人(神官)、広岡子之次郎、黒澤忠三郎、佐野竹之助、大関和七郎、森五六郎、蓮田市五郎、森山繁之介、海後磋磯之介(神職)、杉山孫一郎、広木松之介、増子金八
そして唯一の薩摩藩士 有村次左衛門
【襲撃の体制】
18人は、「武鑑」を手にして大名の登城を見物しているふりをして桜田門外で待ちました。
桜田門近くには、森、
お濠側に佐野、大関、広岡、稲田、森山、海後の6人が立ち、
杵築(きづき)藩松平家上屋敷(現在は警視庁になっています)側に、黒沢、山口、杉山、増子、蓮田、鯉淵、広木、有村の8人が立っていました。
以上15人が実際の戦闘要員で、現場の総指揮者の関鉄之助、それに岡部と斉藤は少し離れた場所に立っていました。
上の写真は、桜田門前から見た警視庁です。桜田門外の変当時は豊後杵築藩上屋敷があり、屋敷前で桜田門外の変が起きました。
【暗殺まで数分間の出来事】
井伊直弼の一行は午前9時に上屋敷を出ました。
直弼の行列が桜田門外の杵築藩上屋敷前に近づいた時、森が訴状を手にして駕籠訴するような格好で駕籠に近づきました。井伊家供頭の日下部三郎が近づくと、いきなり切り付けられ深傷を受けて倒れました。 これと同時に銃声がなり、待機していた水戸浪士たち、お濠側からは佐野たち、杵築藩松平家上屋敷の塀側からは黒沢たちが、一斉に直弼の行列に切り込みました。
井伊側も必死に防戦しますが、雪を防ぐための柄袋や合羽に自由を奪われ斬り立てられてしまいます。
そして、直弼の乗った駕籠だけが残りました。薩摩藩士有村次左衛門が、駕籠に何回も突きつけ、そして、直弼を駕籠から引き出し、その首を落としたのです。
直弼は、発射された弾丸によって、腰部から太腿にかけて銃創を負い、動けなくなってしまっていたため、居合い術の達人でありながら、その居合いを活かすこともできませんでした。
襲撃開始から直弼殺害まで、わずか数分の出来事だったといいいます。