襲撃に加わった18人のうち、現場で死亡したのは、稲田重蔵のみでした。
その他の人たちは、現場から脱出しました。
しかし、残る17名中4名がまもなく自刃し、8名が老中邸などに自訴し、残る5名が現場を脱出し各地に逃亡しました。
【天童藩上屋敷前で2人自刃】
自刃したものは4名いますが、そのうち、山口辰之助と鯉淵要人は、傷が深く、伊勢長島藩増山家上屋敷の角を右にまがり、ようやく天童藩織田家上屋敷前にたどりつき、そこで自刃しました。
天童藩織田家は、織田信長の次男織田信雄の系統で、上屋敷は、現在の丸の内の三菱ビルヂングや丸の内二丁目ビルディングがある場所にありました。ここは、丸ビルの南側になります。
【竜野藩上屋敷に4人自訴】
襲撃した水戸浪士たちは、襲撃が終わった後、月番老中の村上藩主内藤信思(のぶこと)の屋敷に自訴する計画でした。
しかし、馬場先門が通行できなかったため、村上藩に自訴するのをあきらめ、竜野藩上屋敷に自訴しました。竜野藩藩主脇坂安宅(やすのり)が老中であったためです。
ここに自訴したのは。斉藤監物、佐野竹之介、黒沢忠三郎、蓮田市五郎の4人でした。
4人は満身創痍で、特に佐野竹之介は重傷で、その日のうちになくなりました。
竜野藩上屋敷は、現在の東京海上日動ビル(写真左のビル)や新丸ビル(写真の右のビル)の建っている地区にありました。
竜野藩が拝領する前は、福山藩阿部家上屋敷として老中阿部正弘が拝領していました。
【熊本藩上屋敷に4人自訴】 水戸浪士のうち4名が肥後熊本藩細川家上屋敷に自訴しています。
自訴したのは、森五六郎、大関和七郎、杉山弥一郎、森山繁之の4人です。
竜野藩に自訴した人たちが重傷であったのに比べ、熊本藩に自訴した人たちは軽傷だったそうです。
熊本藩上屋敷は、東京駅丸の内北口を出た場所で、現在、日本生命東京本部(写真の左部分)や丸の内オアゾ(写真の右部分)がある場所にありました。
【三上藩上屋敷前で有村自刃】
有村が自刃したのは三上藩上屋敷前でした。 井伊直弼の首をあげた有村次左衛門は勝鬨をあげ、刀の切先に直弼の首級を突きたてて引き上げにかかりましたが、昏倒していた井伊家の小河原秀之丞が鬨の声を聞いて蘇生し、主君の首を奪い返そうと有村に追いすがって後頭部に切りつけました。
小河原は広岡子之次郎らによって斬り倒されたが、有村も重傷を負いました。
有村は、しばらく歩いていたもののついに歩行困難となり辰ノ口の三上藩遠藤家上屋敷の門前で自決しました。この時の三上藩藩主遠藤胤統(たねのり)は、当時、若年寄でもありました。
三上藩上屋敷は、パレスホテルやAIGビルのある場所にありました。
現在パレスホテルは建て替え中で、写真正面はAIGビルです。
この時まで有村が持っていた直弼の首は、一旦、三上藩遠藤家に引き取られた後、井伊家から人が出向き、供方騎馬徒士の加田九郎太の首と称して取り戻しました。
【姫路藩上屋敷前で広岡自刃】
自刃者はもう一人います。広岡子之次郎は、大手門前の姫路藩酒井家上屋敷前で自刃しました。
この自刃の様子を姫路藩士が見ていて、広岡の最後を「いさぎよい死ぬぶり」と書いているそうです。
姫路藩酒井家上屋敷は、現在は、りそな銀行(写真)、三菱東京UFJ銀行などになっています。
【関鉄之助も斬首される】
その他の関鉄之助、岡部三十郎、海後蹉磯之助、広木松之介、増子金八の5人は大老の首をあげるのを見届け、現場を脱出しました。
そして、襲撃の指揮者・関鉄之介は各地を逃亡した後、越後湯沢温泉で捕らえられ江戸で斬首されました。
自訴した人たちや逃亡した後捕えられた人は斬罪に処せられ、後まで生存したのは、増子金八と海後蹉磯之助の2人でした。