今日は、桜田門外の変の後の幕府の対応について書いてみます。
【直弼は生きていることに】
井伊大老が、桜田門外で襲撃されたとの報は、すぐに幕府にも伝わりました。
緊急に4人の老中たちが招集されて事件について協議しました。
集まったのは、内藤信思(のぶこと)、松平乗全(のりやす)、脇坂安宅(やすのり)、安藤信睦(のぶゆき)の4人でした。
藩主が生前に跡目相続をせずに死んだ場合は、家名断絶となるのが掟であり、今回の直弼の死はこれに相当することになります。
しかし、今回、井伊家を取り潰せば、井伊家は水戸藩に対して報復手段を取ることは明らかです。
また、喧嘩両成敗の定めに従えば、幕府は御三家の一つ水戸徳川家も取り潰さなくてはなりません。
そうすれば過激な水戸藩士が黙っているわけがありません。
そこで幕府は彦根藩の安泰を図り、水戸藩に対しても存亡にかかわるような制裁を加えないことが最善策だと判断しました。
彦根藩に当分の間直弼の死を隠し、負傷したように装い、折をみて死亡を公表し、直弼の子供の愛麿(のちの直憲)に跡目相続するように指示したのです。
【幕府、彦根藩を慰撫】
幕府の指示を受けて、彦根藩から幕府に、直弼遭難の届出が出されました。
即日、幕府から彦根藩での動揺がないようにとの論旨がありました。
そして、将軍家茂は4日に使いを井伊家に遣わし朝鮮人参を賜りました。
5日には、改めて幕府から井伊家に「動揺しないようにとの達しが出されました。
さらに7日には将軍家茂が若年寄酒井忠眦( ただます)を遣わして氷砂糖と鮮魚を賜りました。
このように幕府は彦根藩が暴発しないように盛んに慰撫しています。
それは、藩主を暗殺された彦根藩では、江戸だけでなく彦根でも激昂は大きかったからです。
彦根に桜田門外の変を伝えたのは先日紹介した埋木舎の所有者で武蔵野学院大学副学長の大久保治男氏の先祖の大久保小膳です。
大久保小膳は3日夜に江戸を立ち8日早くに彦根に着いているそうです。
こうした江戸からの報告を受けて激昂する藩士が多く、水戸藩とは一触即発の状況にあったからです。
彦根藩士の怒りは、水戸藩だけでなく、行列にいながら逃げ帰った藩士にも向けられました。
彦根藩では、即死者は4名、藩邸で死亡したもの4名いましたが、その他、軽傷の人や無傷の人もいました。
これらの人々は、強く非難され、とりあえず謹慎処分にされました。 そして2年後には斬首などの処分がされたそうです。