【友人の忠告を無視】
井伊直弼は、桜田門外で非業の死を遂げましたが、意外に知られていませんが、その死は直弼自身があらかじめ覚悟していたものだったとも考えられています。
井伊直弼は。事件の数日前、友人の矢田藩主松平信和(のぶやす)を始めとした何人かから忠告を受けていたのです。
信和(のぶやす)の意見は、水戸を脱藩した浪士たちの不穏な動きを警戒しなければならない。事態が落ち着くまで大老を辞してはどうかというものでした。
これに対して直弼は、国家の危機の一身の保全を図る事などできないとし、その友情に感謝の意を示しつつ申し出を断っています。
それでもなお彼の身を案じる信和は身辺の警護を厚くするように強く薦めました。
しかし直弼はこの進言すら受け入れなかったそうです。
諸侯の従士の数は幕府により定められているもので、大老の自分がそれを破ることはできないというのです。
直弼は自分の身よりもあくまでも幕府の権威を再度確立させることを第一に考えていたからです。
左上の写真は、井伊家の菩提寺である世田谷豪徳寺の山門です。ここに直弼もねむっています。
【襲撃の投げ文も無視】
3月3日の事件当日、直弼が屋敷を出た直後に、側役の宇津木左近が直弼の部屋で封の切られた書を発見しています。
この日の早朝に何者かが投じたもので、密かに覗き見ると、水戸浪士に注意するよう忠告した封書でした。
直弼は書を読み自らの危険を知りながら誰にも知らせることなく出発した後でした。
宇津木はびっくり仰天し同僚に告げ、対策を講じようとした矢先に飛び込んできたのが直弼遭難の知らせでした。
井伊直弼は、投げ込まれた投書を確実に見ていたに違いありませんが、側近にも告げず、屋敷を出発したのでした。
井伊直弼、覚悟のうえでの遭難であったのだろうと言われています。
以上のことは余り知られていませんが、これが事実であれば、井伊直弼に対する見方も変わっていいように思います。
右上の写真は井伊家上屋敷表門外西にあった「桜の井」の跡です。井伊直弼もこの脇を通り登城していました。