【源氏の帰依】
平安時代末期の頃、源義朝が浅草寺に帰依し、承暦3年(1079)観音堂が炎上した折、ご本尊が自ら火焔を逃れ、近くの榎の梢に避難されたとの故事を聞き、その榎で観音像を刻み奉納しました。
この像が現在「温座秘法陀羅尼会(おんざひほうだらにえ)」の本尊として拝まれているそうです。
源頼朝は治承4年(1180)伊豆で兵をあげます。しかし、敗れて安房に逃れ、千葉常胤らの協力を得て隅田川を渡り、待乳山あたりに本陣をかまえて兵団を編成しました。
浅草は、多くの軍兵で満ち、やがて頼朝は平氏討滅を浅草寺に祈願し、大軍を引きいて西へ進発していきました。
【「吾妻鏡」に初めて出る】
鎌倉幕府が開設された後、治承5年(1181)に鶴岡八幡宮造営のため浅草の宮大工を召し出したと「吾妻鏡」にあるのが文献上確認できる浅草寺の記述だそうです。
また建久3年(1192)には、後白河法皇の49日法要を鎌倉で営むにあたり、浅草寺の高僧3人を招いたと記されているそうです。
室町時代には、足利尊氏が寺領を安堵し、足利持氏が経蔵を建立、応永五年(1398)には定済上人(じょうさいしょうにん)が広く勧進して観音堂を再建されました。
戦国時代の天文8年(1539)には、小田原城主北条氏綱(ほうじょううじつな)によって堂塔が再建されています。
【徳川幕府が保護】
そして、天正18年(1590)徳川家康が江戸に入府すると、天海大僧正(慈眼大師)の進言もあって浅草寺を祈願所に定め、寺領五百石が与えられました。
慶長5年(1600)関ケ原の戦いの出陣に際し、家康が武運を観音堂において祈念し、勝利を得たのでした。
そこで、徳川家康は、浅草寺を徳川家の祈願所と定め厚く保護しました。
家康死去の年の元和2年(1616)には持仏の聖観音像が浅草寺に寄進されています。
2代将軍秀忠は元和4年に浅草寺境内に東照宮を建立しました。
今の影向堂あたりで、池にかかる石橋は日光東照宮の神橋になぞらえて、浅野長晟が寄進したものです。
右の写真が石橋です。
浅草寺は、寛永8年(1631)、同19年(1642)に相次いで焼失しましたが、3代将軍徳川家光の援助により、慶安元年(1648)に五重塔、同2年(1649)に本堂が再建されました。
いく度もの火災を逃れることのできた本堂と五重塔も昭和20年の戦災で焼け落ちてしまい、現在の本堂は昭和33年に五重塔は昭和48年に再建されました。
浅草神社(上記写真)も慶安2年に、家光によって再建されました。
現存する本殿、弊殿、拝殿は、家光が再建したもので、国の指定重要文化財に指定されています。
以上が江戸時代までの浅草寺の歴史のあらましです。
こうした歴史を見てみると浅草寺のすごさを改めて感じさせられます。
一番上の写真は、幕末・明治期の浅草寺の写真でベアトが撮ったものです。現在の五重塔は宝蔵門の西側にありますが、幕末期には、五重塔がが仁王門の東側にあるのがよくわかります。
この写真は、「長崎大学附属図書館所蔵」の写真です。
長崎大学付属図書館のご厚意により「幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」から画像を転載させていただいています。