そこで、この話を中心に幕末の記事について書きますが、吉田松陰の密航事件のまえに、嘉永7年(1854)3月3日に日米和親条約が締結されましたので、日米和親条約の話を先にします。
嘉永7年(1854)1月16日に再来航したペリーとは、約1ヵ月後の安政元年2月10日に条約交渉が始まりました。
【交渉団のメンバー】
日本側の委員は、林大学頭(林復斎)が交渉団の筆頭、そして北町奉行の井戸対馬守(井戸覚弘いどさとひろ)、浦賀奉行の伊沢美作守(伊沢政義)、目付の鵜殿民部小輔(鵜殿長鋭うどのながとし)、そして儒者の松崎満太郎でした。
そして通訳として森山栄之助、堀達之助というオランダ通詞が参加しました。
アメリカ側の交渉団は、ペリー提督が全権 アダムズ参謀長、中国語通訳のウィリアムス、オランダ語通訳のポートマン、さらに秘書でペリー提督の息子のO・H・ぺりーでした。
左の写真はペリー艦隊の従軍画家ハイネによるペリーの肖像画です。最も本物に近いペリー像と言われているそうです。下田の了仙寺さんの所蔵です。
【「ペリー艦隊日本遠征記」に書かれた人物像】
日本側の委員たちについて、「ペリー艦隊日本遠征記」には次のように書かれています。
林大学頭が首席委員であることは間違いなかった。重要事項はすべて彼に委託されたからである。この人物は55歳くらいで、立派な風采をそなえ、やさしげな容貌ときわめて丁重な物腰とは裏腹に顔の表情は重々しくむしろむっつりしていた。
井戸対馬守はおよそ50歳くらいの、太った背の高い人物だった。彼は年長者の林にくらべれば、多少は快活な表情をしていた。
三番目のいちばん若い諸侯が伊沢美作守で、40歳さほど超えていないようで、3人のうちでとびぬけて美男だった。彼はまったく陽気な人物で、冗談やお祭り騒ぎが好きで、道楽者との評判だった。
鵜殿は、(中略)背が高くまずますの容貌だが、顔立ちがきわめて特徴的で、いかにもモンゴル系らしかった。
松崎満太郎についても書かれてありますが略します。
【複雑な通訳手順】
この交渉団では、日本語から英語、英語から日本語に通訳できる人は一人もいませんでした。
そのため、ペリーの要求は、英語からオランダ語に訳され、ポートマンが日本側に伝えます。
それを聞いた日本側のオランダ通詞が日本語に約して、林大学頭に伝えます。
そして、林大学頭の回答は、また逆の手順を通ってペリーに伝えられるという非常に厄介な手順をとらざるを得ませんでした。
【ジョン万次郎交渉団に参加できず】
実は、日本には英語が理解できる人がいました。有名なジョン万次郎です。ジョン万次郎が通訳に参加していれば、こんな複雑な手順は不要でした。
しかし、水戸斉昭が、万次郎はアメリカから恩を受けているので寝返る可能性があるから交渉団に参加させないほうがよいと言う意見を具申したため、ジョン万次郎は交渉団に参加できませんでした。
万次郎にとっては大変残念だたのではないでしょうか!