吉田松陰が密航を企てたのは、嘉永7年(1854)3月28日のことでした。旗艦ポーハタンに乗り込むことができましたが、結局は、ペリーに拒絶され、密航は失敗に終わります。
【3月5日に江戸を出発】
ペリーが再来航したのは1月16日ですが、吉田松陰が密航のため、江戸をたったのは、再来航後しばらくたった3月5日です。
この日、京橋の酒楼で、宮部鼎蔵(ていぞう)たち仲間に密航の計画を打ち明けます。
仲間は最初反対しますが、松陰の覚悟を聞いて最後は賛成してくれます。
松陰は、同行の金子重輔とは赤羽根橋で待ちあわせ、江戸を出発します。
そして、保土ヶ谷まで行き、しばらく保土ヶ谷や横浜で、黒船に乗れる機会をさぐっています。
そうこうするうちに、3月13日に黒船は下田に向かって離れていったため、保土ヶ谷を出発します。そして3月18日に下田に到着しています。
3月25日には、舟を盗んで沖へ漕ぎ出しましたが、この日は波が荒く、漕いでも漕いでも黒船に近づくことができず遂にあきらめて引き返します。
そして、柿崎弁天島に上陸し弁天社で一夜を過ごします。
翌日朝、お参りに来た村人に驚き、山越えで反対側の海岸に避難します。そして、夜遅く戻ってきました。
3月27日には、柿崎海岸で、アメリカ人にあい、国禁を犯してまでも外国で学びたいという旨を書いた「投夷書」を手渡します。
【3月28日に密航】
そして3月28日の午前2時ごろに漁船を見つけて乗り込みます。
しかし、櫓を固定する杭がなく、ふんどしで櫓を縛り付けて漕ぎ出します。
しかし、ふんどしではすぐゆるんだため、次に帯を解き櫓に縛り付けて漕いでいきました。
最初に漕ぎついた船は、ミシシッピでした。
ミシシッピには日本語はもちろんのこと漢文も読める人がいないので、旗艦のポーハタンに行くよう言われてやむなく100メートルほど離れたポーハタンに行きました。
【密航を拒絶される】
荒波に翻弄されながらポーハタンにたどり着くことができましたが、その際に接舷を拒否する水兵と争いながら身一つで飛び移ったため、乗ってきた舟が流されてしまいました。
刀や荷物などすべての所持品を残したままであり、これが後に動かぬ証拠となりました。
ポーハタンの中には、中国語通訳のウィリアムスがいたため筆談しながら何とか通じたようです。
松蔭らの考えに一応の理解は示しましたがアメリカ行きははっきりと拒絶されました。
国交を結んだ相手国の法律を破ってまで密航者をアメリカに連れていくわけにはいかないことやペリー艦隊は3ヶ月間は滞在する予定であるからその間に許可をとるべきであるといったことが拒絶の理由であったようです。
そして、結局、二人はボートで送り返されます。
送り返された二人は所持品一切を乗せた船を捜しますが見つからず、最終的に柿崎村の名主に自首しました。
上の吉田松陰の写真は「国立国会図書館蔵」です。

