今日は、長命寺の石碑のご紹介と「墨堤植桜之碑」を案内します。
長命寺には石碑が60以上もあるそうです。それだけ人気が高いということでしょう。
昨日の「雪見の句碑」に続いて、 「成島柳北(なるしまりゅうほく)の碑」と「大黒屋梅陰の碑」を紹介します。
また、 「墨堤植桜之碑」は長命寺のすぐ北側にあります。
【成島柳北の碑】
まず、こちらが「成島柳北の碑」です。
成島柳北といってもご存知ない方が多いと思いますが、昨年なくなった森繁久弥さんのおじいさんの弟です。成島柳北は墨堤の桜にとっては大切な人です。
成島柳北がなぜ墨堤の桜にとって大切な人かというと、明治10年の頃、墨堤の桜はかなり荒れていたようです、これを嘆いた成島柳北が大倉財閥の設立者大倉喜八郎らと一緒になって墨堤に桜を植えたためです。
この人は、江戸から明治にかけて活躍した人で、江戸幕府では、外国奉行や会計副総裁を歴任しています。そして明治になってからは、朝野新聞という新聞社の社長をしていますし、現在の明治安田生命の元となる共済五百名社という生命保険会社を安田財閥創業者の安田善次郎とともに作っています。
この碑は成島柳北がなくなった翌年の明治18年に建てられています。
【大黒屋梅陰の碑】
大江戸散歩のガイドの際には、案内できませんでしたが、大黒屋光大夫の子供である梅陰の碑もあります。 大黒屋光大夫は、天明2年(1782)に遭難し、、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着し、 首都ペテルブルグで皇帝エカテリーナ2世に謁見して、10年後の寛政4年(1792)にラクスマンに伴われて帰国した人物です。その子供梅陰は14歳で商家に奉公しつつ学問に励み、光大夫がなくなった後は、母を養うため、数百人の門弟を教えたそうです。
嘉永5年(1852)に妹の良吟比丘尼と門弟がたてたもので、安井息軒の文です。
大黒屋光大夫の子供がいて、かつ門弟数百人の学者だったということは今回初めて知りました。
【墨堤植桜之碑】
これがが墨堤植桜之碑です。
江戸時代からの墨堤の桜の歴史や明治になって成島柳北たちが一生懸命桜を植えた経緯を書いた碑です。
石碑の題字は函館戦争の中心人物で明治政府でも逓信大臣や農商務大臣等を歴任した榎本武揚が書いています。
この碑は、そもそも成島柳北が建設を提唱しましたが、完成前になくなってしまったため、成島柳北の友人である大倉喜八郎や安田善次郎らによって明治20年に建設されました。
最初言問団子の西の隅田川の岸辺に設置されましたが、明治29年に現在地に移されました。

