4月は、幕末の重大事件は起きていないようですので、3月の吉田松陰の下田踏海の関連で、吉田松陰について、数回にわたり書いていきたいと思います。
今日は、生い立ちから九州遊学までについて書きます。
【萩東郊の松本村生まれ】
吉田松陰は、天保元年(1830)萩藩士杉百合之助の次男として長門の萩城の東の郊外に位置する松本村(現山口県萩市)に誕生しました。 虎之助は7人兄妹の次男でした。
同じ年に大久保利通が生まれています。ついでに言うと、西郷隆盛は、3年前に生まれています。桂小五郎のちの木戸孝允は3年後、今話題の坂本龍馬は5年後に生まれています。
名は矩方、幼名は、庚寅(かのえとら)にちなんで虎之助。その後寅次郎などと改めます。
杉家は家禄26石の貧しい半農半士の下級武士でしたが、学問に熱心な家風でした。
右の写真は、吉田松陰の誕生地です。江戸時代には団子岩という地名でよばれていました。
【玉木文之進のスパルタ教育を受ける】
父の杉百合之助の弟の大助は、萩藩の山鹿流兵学師範を代々務める吉田家に養子に入っていました。
松蔭が 6歳の時、その叔父吉田大助が亡くなると、その養子として吉田家の家督を継ぎ、以後吉田大次郎と名乗ります。
父の杉百合之助の末弟は玉木家を継いでいて玉木文之進といいました。松陰の兵学教育にあたったのが、山鹿流免許皆伝であった玉木文之進でした。
玉木文之進による教育は、兵学師範となるために苛烈なもので、後に、松蔭自身が、よく死なずにすんだものだと振り返るほどでした。
なお、吉田松陰といえば松下村塾というように、松下村塾は、吉田松陰の私塾のように思われていますが、もともとは、叔父の玉木文之進が、天保13年(1842)に私塾を開き、松下村塾と名付けたのが最初です。
上の写真は、王木文之進の旧宅です。
【萩の秀才、若い頃から藩主も注目】
10歳の時から藩校明倫館に出仕し、天保11年(1834)11歳の時、藩主毛利敬親の前で「武教全書」戦法編の講義を行い、藩主毛利敬親を感服させる出気前でした。
19歳で独立の師範となり、引き続いて22歳まで明倫館で山鹿流兵学を教授しました。
弘化4年(1847)18歳で林真人より大星目録の免許返伝を受け、嘉永4年(151)22歳の時には三重極秘の印可返伝という山鹿流兵学でもっとも高い免許を受けます。
右の写真は、藩校明倫館の有備館です。有備館は、剣術や槍術の練習をおこなったところです。 坂本龍馬が、文久2年(1862)に萩を訪れた時、 ここで剣術の試合をしたといわれています。
【九州遊学】
21歳の時、藩に九州遊学の希望を申し出、遊学が許可された松陰は、嘉永3年(1850年)8月、松陰は見聞を広め自分を高めるべく九州遊学の旅に出ました。
平戸、長崎、熊本と旅を続けますが、九州それも特に平戸を選んだのは、兵学の師林真人の強い勧めで葉山左内を知ったことと平戸には山鹿流兵学の宗家があるためでした。
そのため、平戸では儒学者で平戸藩家老の葉山佐内、山鹿流兵学宗家の山鹿万助に教えを受けています。
そして、熊本で宮部鼎蔵(みやべていぞう)と出会います。宮部鼎蔵は山鹿流兵学を学び藩師範役に任じられたばかりでした。彼とは、国の防衛などについて意気投合します。
宮部鼎蔵は、松陰より10歳以上年上でしたが、後に、江戸遊学時に再会し、東北旅行も一緒に同行するなどし、生涯の親友となりました。
なお、宮部鼎蔵は、後に勤皇の大物志士として京都で活躍し、池田屋事件では新撰組に急襲され自刃しました。

