【江戸へ遊学】
嘉永4年(1851) 松陰が22歳の時、九州遊学の旅から帰り、わずか3ヶ月後に藩主の参勤交代に同行して江戸に遊学しました。
九州遊学のなかで、情報を得るには江戸が一番ということを知ったためです。
江戸では、儒学を安積艮斎から学び、兵学を山鹿素水から学びました。
そして、その後松陰の生き方に大きな影響を与えた佐久間象山にも入門しました。
また、松陰は天下の有志と盛んに交流を持ちました。
なお、松陰は友人たちと名所旧跡も訪ねていて、向島百花園、両国、神田まつり、泉岳寺、目黒不動、池上本門寺などに出かけていたようです。
※右の吉田松陰の写真は「国立国会図書館蔵」
【脱藩までして東北巡歴】
その過程で熊本藩の宮部鼎蔵と「水戸学」や「海防」などの勉強を目的とした東北の旅を計画しました。
松陰の希望は藩で認められましたが、運悪く藩主が江戸不在で、過書(他国を旅行する時に必要な手形、身分証明書)を得ることが出来ませんでした。
しかし、12月の約束の出発日が来ると、約束を違えるのは恥と考え、松陰は過書を持たないままに出発してしまいました。
過書もなく無断で旅立つことはすなわち脱藩ということになります。
脱藩した松陰は、宮部鼎蔵らと水戸、会津を訪ね佐渡にも渡り、その後弘前、盛岡、仙台などを訪れ見聞を広めています。
そして前年12月に出発してからの140日間の大旅行を終えて嘉永5年4月に江戸に戻ります。
【脱藩により処分を受ける】
東北巡歴から江戸に戻った松陰は、萩藩邸に自首しました。
その結果、脱藩の罪により、松陰は萩に送還されることとなり、藩士の身分を失い、父の杉百合之助の保護下におかれることとなりました。
しかし、松陰の才を惜しんだ藩主から10年間の国内遊学の許可が出ます。
そして、嘉永6年(1853年)正月に2度目の江戸遊学へ出発し、また佐久間象山に師事します。
【ペリー来航の影響で海外渡航を決意】
江戸での遊学中の嘉永6年6月、ペリー提督率いるアメリカの東インド艦隊が浦賀に来航します。
浦賀に出かけ黒船を観察した松陰は大きな衝撃を受け、幕府の国防に対する不備を強く認識するとともに、多くの志士たちが感じたように危機感を覚えます。
こうした中で佐久間象山の外国と世界を熟知するために有能な人材が海外に渡航することが最高の対策という考えに大きな影響を受けます。
それにより、松蔭みずからの海外渡航を決心しました。
ペリーが去ってから1ヶ月後の嘉永6年7月に、プチャーチン率いるロシア艦隊4隻が長崎に入港したという知らせが届き、松陰はロシア船に乗り込む密航計画を立て長崎に向かいました。しかし、松蔭が江戸を出発したのは、ロシア軍艦が長崎に来航してから2ヵ月後であったし、京都で梁川星厳をたずねたりしていたため、長崎に着いた10月27日は、艦隊は出航した3日後でした。
落胆した松蔭は再び江戸にもどってきますが、松陰はそれでも密航をあきらめません。
ちょうど、嘉永7年(1854年)1月、ペリーが再来航し、密航計画を知り松陰に強く願い出た長州藩足軽・金子重之助とともに3月28日に密航を再度企てることになりました。
松陰の海外渡航の計画を「下田踏海」といいます。
「下田踏海」については、既に書きましたので、こちら⇒「吉田松陰密航」をお読みください。

