吉田松陰は、ペリー提督に海外渡航を拒否され、ボートにより浜に送り返された後、黒船に乗る込むために利用した小舟が流されてしまったため、乗り捨てた小舟から密航のことがわかるだろうと考え柿崎村の名主に自首します。
【小伝馬町牢屋敷に入る】
そして下田番所で取調べを受けた後、小伝馬町の牢屋敷に送られました。
小伝馬町では、吉田松陰は、揚屋に入り、金子は無宿牢に入れられました。
この密航事件に連座して師匠の佐久間象山も捕らえられました。
佐久間象山は東奥揚屋、松蔭は東口揚屋に入ったというから壁一つ隔てた隣り合わせの牢に入ったことになります。
入牢後6ヶ月経った9月になって、帰国して蟄居するむねの判決が出ました。
佐久間象山も松代藩に引き渡して蟄居という判決でした。
【野山獄に入る】 松陰は安政元年12月、萩に戻され松蔭は野山獄、金子重輔は岩倉獄に投獄されました。
野山獄は士分を収容する牢で、岩倉獄は百姓を収容する牢で、野山獄から道を隔てた向かい側にありました。
金子重輔は、小伝馬町の牢で病気になり、牢でも、帰国途中でも看護らしい看護は一切なく、岩倉獄に入獄した後、約3か月後に獄死します。
幕府の判決は、国許在所で蟄居となっていましたが、幕府への遠慮から長州藩は松蔭と金子を入獄させたようです。
上の写真は、現在の野山獄跡です。
【野山獄の日々】
松陰が野山獄に入った時、すでに11人の囚人がいました。
松蔭は野山獄には約1年2ヶ月投獄されていましたが、獄中では、読書と著作の日々でした。
「野山獄読書記」によれば、安政元年(1854)10月24日から翌年の12月15日まで618冊の本を読んだそうです。毎月44冊のペースで、倫理哲学、歴史伝記、地理紀行、兵学、詩文など様々な分野の本を読んでいるそうです。
また、同じ獄に投獄されている他の人に呼びかけ、俳句や漢詩、書道などそれぞれの得意分野を皆に教える勉強会を開きました。
松陰もまた、皆に論語や孟子などを教えました。そういった勉強会を開くうち投獄されていた他の人も生きる希望を見出し獄の中は次第に明るい雰囲気になっていったそうです。
そして、松陰は、在獄中から獄に入っている人たちの釈放運動に積極的に取り組んでいます。
その活動により、松蔭を入れた在獄中12名のうち7名が出獄したそうです。
そうした人たちの中に富永有隣もいます。富永有隣は松蔭出獄1年後の安政4年(1859年)に出獄し、出獄後は松陰の松下村塾で講師を務めました。
この富永有隣が国木田独歩の小説「富岡先生」の主人公のモデルです。
松陰の唯一の女性との交流といわれる高洲久子との交流は、この野山獄時代の出来事です。
松陰と久子については、 「『おうち』と『ほととぎす』 (吉田松陰の恋)」で書いてありますので、ご覧ください。
上の写真は、松下村塾の隣にある松陰の幽囚室がある杉家の旧宅です。

