松陰が松下村塾で塾生たちの指導に当たった期間は、野山獄を出獄した安政3年(1856年)8月から、野山獄に再入獄する安政5年(1858年)12月までのわずか2年余りに過ぎません。
しかし、ここから幕末期に志士として活躍した者や明治維新で新政府に関わる者など、幕末・明治において大きな役割を果たす人物が育っていきました。
【松下村塾はもともとは玉木文之進の塾】
松下村塾は、もともと、天保13年に、松陰の叔父の玉木文之進が、萩城下松本村の自宅の一隅にはじめたものです。
松下村塾という名の由来は、村名の松本を松下に置き換えただけの、ごく単純なもののようです。
これは、玉木文之進が無役の時代に始めたもので、文之進が役につくとともに自然消滅していました。
それが嘉永年間には松蔭の叔父の久保五郎左衛門が名前を引き継いでいました。
今も、玉木文之進の旧宅(上の写真)の前には、「 松下村塾発祥之所」という石碑がたっているそうです。
【松下村塾で教育開始】
野山獄に松陰が投獄されてから1年2か月後の安政2年(1855)12月15日に、野山獄を出た松陰は藩から自宅謹慎を命じられ、実家の杉家に「幽囚」の身として戻ります。
出獄後の安政3年3月ごろ、松陰は自宅に設けられた幽囚室で、父や兄の勧めもあって、親族・近隣の者を相手に、野山獄で行っていた「孟子」の講義を再開します。幽囚室での講義は評判となり、その評判はしだいに萩城下に広がっていきました。
当初は3畳という僅かな幽囚室で行なわれていたものの、受講するものが増え、その後8畳に増築しました。
さらに安政5年3月に増築された松下村塾は、8畳一間、4畳半一間、3畳二間を加えた計18畳半に一坪強の土間がついたものでした。
松下村塾の塾生の数は、諸説あり一定していませんが、、京都大学名誉教授の海原徹氏によると92名だそうです。その内訳は、士分53名、卒分10名、陪臣10名、地下医4名、僧侶3名、町人3名、他国人1名、不明8名で、身分に関係なく、広く門戸が開放されていました。
松下村塾で指導を受けた主な人は、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一(以上が四天王)、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義などです。
改めてそうそうたる人々だと思います。
【松下村塾での教育内容】
松下村塾で、どのような教育が行われたか海原徹氏の「吉田松陰」に基づいて書いてみます。
松下村塾では、身分、年齢などを問わないで教育がおこなわれたそうです。そのため、上に書いたように士分だけでなく、卒分の人もいれば、医者や僧侶もいました。そして、松下村塾に新しく来た人は、必ず勉学の目的について聞かれ、読書人でなく実践家たることを強く求められたそうです。
また、松陰は、さまざまな個人的差異をあるがままに認めたうえで、それをしっかり踏まえた教育、すなわち各人の個性や能力にふさわさしい、その特徴を生かした教育を行ったたようです。
そのため、塾生が何を学ぶか、どのような教科書を選ぶかは塾生各人によって異なっていたそうです。
こうした教育の元で多くの人が松下村塾から育っていきました。

