今日は吉田松陰が 安政の大獄により処刑される までを書きます。
【間部詮勝の暗殺を計画】
安政5年(1858)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結し、その後、将軍継嗣を紀州藩主徳川慶福とし、さらに安政の大獄を開始したことを知って激怒し、老中首座である間部詮勝の暗殺を計画します。
間部詮勝は、井伊大老の指示のもと、京都へ上り、反幕府の公家や浪士たちの弾圧の先頭にたっていました。
松陰は、長州藩政府に、暗殺に必要な武器を藩政府で整えてもらいたいという願書を提出します。
【野山獄に再入獄】
藩政府が、このような願書を受けるはずがなく、藩政府は、松蔭の野山獄への入獄と松下村塾の閉鎖を命じます。そして、12月26日に、野山獄に再入獄します。
また、高杉晋作や久坂玄瑞も時期尚早であり自重すべきであるとの考えでした。
やがて、4月になると、幕府から松蔭の江戸召還が長州藩に命じられ、安政6年(1859)5月25日早朝、松陰は野山獄から江戸に向かいました。
写真は、松陰が江戸に送られるとき「かえらじと思いさだめし旅なれば、一入(ひとしほ)ぬるる涙松かな」と詠んだといわれる涙松の跡の碑です。
【評定所での尋問】
松陰が江戸に送られた理由は、安政の大獄で獄死した梅田雲浜が萩で松陰に会った事を話したためでした。
松蔭が幕府評定所に呼び出されたのは7月9日でした。
大目付久貝因幡守正典、勘定奉行兼町奉行池田播磨守頼方、町奉行石谷因幡守穆清(いしがやあつきよ)等による尋問がおこなわれました。
江戸の評定所が松陰に問いただしたのは、梅田雲浜との関係と、京都御所に落文をしたのではないかという2点でしたが、松陰の説明は簡単に済み、疑いも簡単に晴れました。
そこで、松陰はこの機会を利用し幕府に自分の意見を言おうと考えて、「間部詮勝要撃計画」をも告白してしまいます。
松蔭は、計画を幕府側が探知している思ったゆえの告白でしたが、奉行たちは予想もしなかった老中暗殺計画に非常に驚きました。
即日、松陰は小伝馬町に入牢を命じられてしまいます。
※下の写真は、小伝馬町牢屋敷跡に創建された大安楽寺
【松陰、処刑される】
その後9月5日、10月5日に3回目の取調べが行われましたが、いずれも取り調べる奉行たちの態度は穏やかであったため、松蔭は、処分は、死罪も遠島もなく、重くても他家お預けと楽観的に考えていたようです。しかし、頼三樹三郎、橋本佐内さらに飯泉喜内が死罪がなると、最悪の事態を予想するようになります。
10月16日の取り調べは厳しく行われ、死罪を免れがたいことを感じたようです。
死罪の免れがたいことを知った松陰は、10月20日に家族宛の別れの手紙を書き、10月25日には、遺書となる 「留魂録」 を書き始め26日に書き終わります。
そして、安政6年(1859)10月27日に、評定所から「死罪」が言い渡され、即日、小伝馬町牢屋敷にて処刑が行なわれました。吉田松陰30歳という若さでした。
吉田松陰を斬刑にしたのは、7代目山田浅右衛門です。山田浅右衛門は、後に、松陰の最後は大変見事であったと語ったそうです。

