吉田松陰は、安政6年(1859)10月27日に処刑されました。
そして、松陰は一旦小塚原回向院に埋葬されますが、門下生たちは、必死になって、松陰を忠烈の士として埋葬しようとしました。
そしてついに、世田谷若林の大夫山(現在の松陰神社)に埋葬することができました。
【尾寺、飯田 小伝馬町へ行く】
処刑の前日の26日の夜、長州藩執政周布政之助が、尾寺新之丞を藩邸に呼んで、明朝評定所で松蔭の断獄があることを告げましたので、尾寺は27日早朝、飯田正伯を伴って、評定所に向かいました。
門前の露店で、先刻、重罪人を伝馬町に護送したことを聞いて、小伝馬町の獄卒金六を訪ね、初めて松陰は4ツ時すでに処刑されたことを知りました。
若干の金を金六にわたし、遺骸を下げ渡してもらえるようはかりました。金六は金を獄吏に賄いましたが獄吏は容易に許さなかったので、尾寺と飯田は屍を渡さないようにお願いしておいて、さらに28日再び金六の手を経て努力しましたが許されませんでした。
29日飯田自ら獄吏を訪ね懇願したので「獄中死屍の処分に苦しむ」を建前として、午後に小塚原回向院で亡骸を引き渡すことを約束します。
☆飯田正伯 文政8年(1825年)長州藩医の子として生まれる。
安政5年(1858年)に松下村塾に入り、主に兵学を学ぶ。
万延元年(1860年)軍用金調達を名目にして浦賀の富豪を襲って金品を強奪。
そのため、罪人として幕府に捕縛され、獄中において文久2年(1862年)に病死。
☆尾寺新之丞 天保4年(1833)大組士尾寺儀右衛門の長男として古萩町に生まれる。
25歳の時村塾に入門。 松陰が江戸で処刑されたとき、ちょうど藩命で遊学中。
維新後は司法省や教部省に勤め、明治13年(1880)に伊勢神宮の神官に任命される。
上の写真は、小伝馬町牢屋敷の処刑場の跡に建つ「延命地蔵」です。
【桂、伊藤、飯田、尾寺の四人で、小塚原回向院に埋葬】
二人は桜田藩邸に戻り、桂小五郎および伊藤利助(博文)に告げてから、大甕と巨石を買って回向院に行きましたが、木戸・伊藤はすでにそこに着いていました。
幕吏が来て、回向院の西北にある刀剣試験場のそばの藁小屋から一つの四斗樽をとってきて、これが松陰の亡骸であるといいました。
四人が蓋をあけたところ、顔色はなお生けるが如く、髪乱れて顔に被り、血流れてかつ身体には着衣はないという状態でした。
四人はその惨状を見て憤恨の情を禁ずることができませんでした。
そこで飯田は髪を束ね、桂、尾寺は水をそそいで血を洗い、そして首と身体を接しようとしましたが、幕吏はこれを制して、「重刑人の屍は他日検屍があるかもしれぬ。接首等が発見されれば余等の罪は軽くない。幸いに推察を請う」と頼みましたので、飯田は、黒羽二重の下衣を、桂は襦袢を脱いで身体にまとい、伊藤は帯を解いて結び、首をその上に置いて甕に納め、橋本左内の墓の左方に葬り巨石を覆いました。
数日を過ぎて、飯田・尾寺は碑を建てて、その中央の正面に「松陰二十一回猛士」と彫り、左側に「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂」の歌を刻みました。
しかし、幕府はすぐに墓碑を壊させました。
【若林の大夫山に改葬】
文久2年(1862)に恩赦があったため、久坂玄随らが再び碑を松陰の墓に建て直しました。
しかし、「小塚原は刑死者を埋める穢(けがれ)た地であって、忠烈の士の骨を安んずべき所ではない」と、高杉晋作らが熱心に改葬を主張し、ついに幕府の許可を得て、長州藩の別邸のあった荏原(えばら)郡若林村の大夫山(だいぶやま)に改葬することになりました。
文久3年(1863)の1月5日、 高杉晋作、伊藤利助(博文)、山尾庸三、白井小助、赤彌武人らが中心となって改葬が行われました。
山尾、白井は前夜小塚原に向かい、高杉たちは、翌日、馬に乗った高杉を中心に小塚原に向かい、墓を掘り遺骨を新しい棺に納めました。そして、夕刻に大夫山に葬ることができました。
松陰の墓の傍には、明治15年(1882)、松陰を祀る神社として松陰神社が、門人を中心に創建されました(上の写真)。