今日は、吉田松陰と乃木希典との関係を書いていきます。
吉田松陰と日露戦争の英雄乃木将軍は、叔父の玉木家を介して親戚関係にありました。
玉木文之進の養子に、乃木希典の弟がなっているからです。
それだけでなく、乃木将軍も、玉木文之進の弟子でしたので、松陰と乃木将軍は相弟子(あいでし)でもあります。
【希典 文之進の塾に入塾】
吉田松陰は、幼少の頃、叔父の玉木文之進に厳しく教えこまれました。
その玉木文之進の塾に、萩藩の支藩である長府藩から、元治元年(1864)に15歳の乃木希典がやってきます。乃木希典は、父親の許しもないまま家出同然のように来たようです。
玉木家の先祖は、乃木家から分かれたといわれていて、もともと、乃木家と玉木家は本家、分家の関係にあったこともあり、また玉木文之進が希典の父の乃木希次と親しかったということもあるようです。
家出同然であったため、最初、玉木文之進は入塾を認めませんでしたが、後に許すことになります。そして翌年の秋まで学んだ後、萩明倫館に入りました。
そして希典の弟の真人も一緒に学ぶようになりました。
※上の乃木希典の写真は「国立国会図書館蔵」、下の写真は、萩の玉木文之進の旧宅
【正誼 文之進の養子となる】
この時期、玉木文之進の子供彦介は、元治2年の正月に長州藩の内訌戦で戦死してしまいます。
そこで、養子として迎えたのが、真人です。その後、真人は、正誼(まさよし)と改名します。
正誼は、明治になってから再開した玉木文之進主宰の松下村塾の中心的人物として、文之進を助けます。
明治7年頃になると、松下村塾は、前原一誠に同調する不平士族の幹部養成学校のようになり、玉木文之進や正誼も中心人物として動きます。
そして、明治9年の萩の乱で、正誼は戦死し、文之進は、萩の乱に正誼や多くの弟子が参加したことから、玉木家の墓前で切腹してしまいます。
この頃、乃木希典は、熊本歩兵第14連隊長心得として小倉に勤務していましたが、二人に同調することはしませんでした。
【松陰 希典に影響を及ぼす(?)】
吉田松陰は、乃木希典が11歳の時、幕府に捕らわれ処刑されています。そのため、乃木希典は直接的には、吉田松陰の教えを受けていません。
しかし、次のことから、乃木希典に吉田松陰が大きな影響を与えたように思えてなりません。
①吉田松陰を厳しく教えた玉木文之進の塾に、15歳で家出同然で入塾を目指していること
②玉木文之進が再三、松陰を引き合いに出して教授していること