神田周辺をご案内してきます。ガイドの様子は、またお知らせします。
さて、今回は 雉子橋門(きじばしもん) のご紹介をします。
現在の雉子橋は、東京メトロ東西線「竹橋」駅の1番出口から250メートル、3分のところにあります。
【雉子橋の由来は雉子の鳥屋】平河濠と牛が淵との距離が50メートルに迫った地点を固めるため、東西の二つの濠を結んで門を造りました。
雉子橋という名前は、朝鮮通信使をもてなす雉子を集めるためにつくった鳥屋があったために、つけられたそういです。
建造したのは越前福井藩主松平忠昌で、寛永6年(1629)に構築されました。
明治6年(1873)に櫓門が撤去されました。
雉子橋は、明治36年(1903)に鉄橋に改架しましたが、関東大震災で被災し、現在の橋は大正14年に架け替えられたものです。
【警備が厳しい門】 江戸城本丸に近いため警備も厳しかったといわれます。
「雉子橋でけんもほろほろに叱られる」という川柳も残されています。
江戸時代の雉子橋は、現在の雉子橋よりもう少し西側にあったようです。
右の写真は、現在の雉子橋から西側をみた様子ですが、高速道路が空を覆っていてうっとしく感じさせます。
【「白牛酪」製造所もあった雉子橋】
江戸切絵図をみると、雉子橋の近くに「野馬仕込預明地」と書かれた場所があります。
ここでは、野馬の訓練をしていました。
そこでは、「白牛酪」が作られていたという話もあります。
「白牛酪」というのは、白牛の乳を煮詰めたもので、バターに似たものだということです
「白牛酪」は将軍家のほか、朝廷に献上されたり、諸大名に下賜されたりしたそうです。
【神田雉子町】
江戸時代のはじめにこの辺りにあった町屋は、他に移転させられたそうです。
移転してできた町が、神田雉子町です。
神田雉子町の名主で有名な人は、斉藤幸雄・幸孝・幸成です。この3人によりできあがったのが「江戸名所図会」です。
斉藤幸雄が、寛政期に編纂を開始して、天保年間に斎藤幸成(月岑)が7巻20冊で刊行しました。
長谷川雪旦の絵も詳細で分かりやすくて、江戸時代の記事をかくのに大変利用させてもらっています。

