長崎海軍伝習所から江戸に戻っていた勝海舟は、咸臨丸の艦長として大きな役割を果たします。 咸臨丸が品川から出航したのは安政7年(1860)の1月13日でした。
【咸臨丸】
咸臨丸は、江戸幕府が始めてオランダに注文した軍艦でした。オランダ名でヤーパンと呼ばれ、カッテンディーケが乗ってやってきました。
長さ50メートル、幅7.3メートルで、300トン、百馬力の船でした。
左の写真は、墨田区役所一階の勝海舟コーナーに展示されている咸臨丸です。
江戸に戻り軍艦操練所教授方頭取であった勝海舟は、咸臨丸に艦長として乗り組みました。
アメリカ行きの発令があったのは、安政6年(1859)11月24日でした。
アメリカに批准書の交換のために派遣する使節の護衛と使節に万が一のことがあった場合には、その使節の代理を務めさせようという狙いだったようです。
【遣米使節団】
そもそも、批准書交換の使節派遣は、安政5年(1858)締結された日米修好通商条約に批准書の交換はワシントンで行うとされたためでした。
安政6年(1859)9月、正使および副使に、共に外国奉行および神奈川奉行を兼帯していた新見正興と村垣範正が任命され、新見正興が正使に、村垣範正が副使となりました。
さらに、目付として小栗忠順が任命されました。
使節団77人は、米国海軍のポーハタン号で太平洋を横断し渡米することになりました。
上の写真は、下田の了仙寺が所蔵している「ポーハタン号」です。
咸臨丸の方は、軍艦奉行木村摂津守喜毅(よしたけ)を咸臨丸の司令官とし、勝海舟は艦長となりました。
木村喜毅は、長崎海軍伝習所で、海舟と一緒に、伝習にあたった仲です。
そして、乗組士官の多くを海軍伝習所出身者で固めました。
通訳にはアメリカの事情に通じた中浜万次郎(ジョン万次郎)を選ばれました。
また、福澤諭吉が木村喜毅の従者として乗船しています。総勢107名です。
【荒天の中の咸臨丸】
咸臨丸には、日本人のほか、アメリカ人船員が乗っていました。
フェニア・クーパー号が難破したため横浜に滞在中であったフェニア・クーパー号の船長ブルックを始めとするアメリカ人船員です。
当初、アメリカ人船員が乗船することに、海舟たちは抵抗していたようです。
しかし、連日の荒天で、船体が大幅に傾くこともしばしばであったため、木村喜毅も勝海舟も、激しい船酔いで船室に閉じこもり、他の日本人船員もほとんど活動できず、ブルック以下のアメリカ人船員がほとんど操船したようです。
【アメリカで大歓迎を受ける】
咸臨丸は、日本暦の2月26日にサンフランシスコ港に到着しました。43日間の航海でした。
サンフランシスコでは大歓迎を受けました。
海舟は、「氷川清話」の中で、「桑港」(サンフランシスコ)へ着くと、日本人が独りで軍艦に乗ってここに来たのはこれが初めてだといって、アメリカの貴紳らも大層賞めて、船底の掃除やペンキの塗り替えなども悉皆(しっかい)世話してくれたヨ。」と書いています。
【咸臨丸、復路ハワイに寄港】
咸臨丸が、帰途についてのは、閏3月18日でした。勝海舟は、南アメリカにまわりたかったのですが、使節団から止められたため断念しました。「氷川清話」の中で、これについても、海舟は触れています。
そして帰路には、往路には寄らなかったハワイに寄っています。
オアフ島のホノルルに寄り、国王カメハメハ4世に謁見しています。
そして5月5日に日本に帰りつきました。
なお、遣米使節団は、ワシントンで大統領ブキャナンに謁見し、批准書を交換した後、アメリカ軍艦ナイアガラに乗って、大西洋を横断し、喜望峰・インド洋を通り、地球を一周して、万延元年(1860)9月27日に日本に戻ってきました。
このアメリカ行きが海舟にもたらしたものは、当然のことながら、アメリカの技術の進歩に驚きますが、それ以上に社会制度の違いを知り、そこから日本の進路について考えが生まれたことだろうといわれています。