無血開城は、ボリュームがあるので2日間にわたってかきます。
【大政奉還・鳥羽伏見の戦い】
辞表を提出して江戸に帰ったものの許されなかったため、勝海舟は軍艦奉行として普通の事務を行っていました。
江戸で勝海舟がそうしている時期、京都では、慶応3年(1867)10月14日に、徳川慶喜が大政奉還により政権を朝廷へ返上しました。
慶喜は、諸侯会議の議長として影響力を行使することを想定していたが、岩倉具視・大久保利通・西郷隆盛が主導した12月9日の王政復古の大号令が発せられ、小御所会議によって慶喜の辞官納地が決定されます。
慶喜はいったん大坂城に退きますが、薩摩を討つべしとの主戦論が沸騰し、幕府軍が京都へ進撃し、慶応4年正月3日鳥羽・伏見の戦いが起きます。
しかし、薩摩・長州藩は優勢な砲火を用い、幕府軍を圧倒します。さらに薩長軍に錦旗が翻り、幕府軍は朝敵となって、大敗してしまいます。
慶喜は6日、幕府軍を捨てて大坂城を脱出、軍艦開陽丸で海路江戸へ逃走しました。
【大久保一翁・勝海舟連立政権発足】
正月11日、品川に到着した慶喜は、翌12日江戸城西の丸に入りました。
江戸でも、恭順派と抗戦派の争いがありました。勝海舟は恭順派でしたが、勘定奉行小栗上野介忠順らは抗戦論を主張しました。
慶喜は、15日に小栗小栗上野介を罷免し、恭順することを鮮明にしました。
23日、老中若年寄を除き、恭順派の旗本を各行政部門の正副総裁とする人事の変更が行われました。
ここで、勝海舟は陸軍総裁となります。その他、海軍総裁は 矢田堀鴻、副総裁は 榎本武揚 、そして、会計総裁大久保一翁、副総裁成島柳北 という体制になりました。
この政権は、陸軍総裁勝海舟と会計総裁大久保一翁の2人が、事実上の最高指導者であり、恭順派の勝・大久保連立政権でした。
2月12日、慶喜は江戸城を退出し、上野寛永寺大慈院に移って、その後謹慎生活を送りました。
【西郷隆盛は強硬派】
新政府側でも徳川家に対して厳しい処分を断行すべきとする強硬論と寛典論の両論が存在しました。
薩摩藩の西郷隆盛などは強硬論であり、2月9日には有栖川宮熾仁親王が東征大総督に任命され、参謀には西郷隆盛が任命されました。
2月15日、東征大総督は京都を進発して東下を開始し、3月5日には駿府に到着し、翌日には江戸城総攻撃の日付が3月15日と決定されました。
【山岡鉄舟、駿府に行く】
差し迫る東征軍に対し、寛永寺で謹慎中の徳川慶喜を護衛していた精兵隊頭の山岡鉄太郎(鉄舟)が、3月6日、駿府まで進撃していた東征大総督府に赴くこととなりました。
3月5日海舟は山岡と会いました。海舟は初対面でしたが、一見してその人物を大いに評価し、西郷への書状を書きました。
そして、前年の薩摩藩焼き討ち事件の際に捕らわれた後、勝家に保護されていた薩摩藩士益満休之助を同伴させて送り出しました
6日に山岡と益満は駿府の大総督府へ急行し、9日に西郷と会見しました。
すでに江戸城総攻撃の予定は3月15日と決定していましたが、山岡は西郷に慶喜への寛大な処置を要望しました。
【新政府側の条件】
これに対して、西郷は、戸城総攻撃の回避条件として山岡に以下の7ヶ条を提示しました。
1.徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること。
2.江戸城を明け渡すこと。
3.軍艦をすべて引き渡すこと。
4.武器をすべて引き渡すこと。
5.城内の家臣は向島(東京都墨田区)に移って謹慎すること。
6.徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること。
7.暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧すること。
山岡は上記7ヶ条のうち第1条を除く6ヶ条の受け入れは示したが、第1条のみは絶対に受けられないとして拒否し、立場を変えて西郷と島津公との関係として考えてみたらどうだと主張したと言われています。
西郷も山岡の立場を理解して折れ、第1条は西郷が自分にまかせろと保証したといわれています。
山岡はこの結果を持って翌10日、江戸へ帰り勝に報告しました。
西郷も11日に駿府を発って13日には江戸薩摩藩邸に入りました。
江戸城への総攻撃を予定されていた15日のわずか2日前のことでした。
明日は、いよいよ勝・西郷会談です。
本日使用した3人の写真は「国立国会図書館」蔵です。