【徳川家処分案】
勝海舟との会談を受けて江戸を発った西郷隆盛は急ぎ上京し、西郷の提議で海舟の出した徳川側の新条件が検討されました。
その結果、次のようになりました。
第1条、慶喜の謹慎先は水戸藩となりました。
第2条、田安家に江戸城を即刻返すという勝海舟案は却下されたが、大総督に一任されることになりました。
第3・4条の武器・軍艦引き渡しに関しては、一旦新政府軍が接収した後に、改めて徳川家が必要とする分を渡すことになりました。
第5・7条は原案通りとなりました。
第6条の慶喜を支えた人々の処分については三条実美が強く反対し、特に松平容保・松平定敬に対しては、はっきり死罪を求める厳しい要求を主張したそうでうす。
そして、会津・桑名に対して問罪の軍兵を派遣し、降伏すればよし、抗戦した場合は速やかに討伐すると修正されました。このことが後の会津戦争に繋がることになったようです。
【池上本門寺】 3月22日、修正された7ヶ条を携えて、西郷は再び江戸へ下りました。
3月28日、西郷は横浜にパークスを訪問し、新政権の処分案について説明し、パークスは処分案についてに満足しました。
西郷が処分案を徳川家に通告する前にパークスに説明するほど、パークスの圧力は強かったようです。
4月1日に、東海道先鋒総督橋本実梁は池上本門寺に入り、2日、甲州方面からきた副総督柳原前光と合流しました。
右写真は、池上本門寺の理境院です。ここが西郷隆盛の宿舎になりました。
総門を入ると左手にあります。朱塗りの山門が目立ちます。
【城明け渡しと慶喜の水戸退去】
4月4日には、東海道先鋒総督橋本実梁、副総督柳原前光は勅使として、参謀西郷隆盛、海江田信義らを率いて江戸城へ入城しました。この日、田安慶頼は、大広間の上段に、勅使を迎え、自身は下段に着座しました。
西郷ら参謀と大久保一翁たちも下段に座りました。しかし、勝海舟は、江戸市中の警備にあたっていたため、この場にはいませんでした。
そして、次の5ヶ条が勅使から下され、実行期限が4月11日とされました。
第1条、徳川慶喜の死一等を減じ、水戸で謹慎する。
第2条、城明け渡し、尾張藩に相続する。
第3条、軍艦、銃砲を引き渡し、追って相当分を返還する。
第4条 城内住居の家臣は城外に出る。
第5条 慶喜を支えた人たちは、死一等は減ずるが相当の処置をする。
いよいよ4月11日が江戸城明け渡しです。
そして、同じ日に、徳川慶喜が謹慎していた寛永寺から水戸へ出発しました。
江戸城には、薩摩、長州、尾張、肥後、備前、砂土原、大村7藩の兵が入城し、無血開城され、東征軍が接収しました。
この明け渡しの式典中に、西郷が居眠りをしたので、その人物の大きさにという逸話があります。
江戸城が明け渡しされる前日に、天璋院は一橋邸へ、同じ日に静寛院宮(和宮)は清水邸に移りました。
【榎本艦隊抵抗】
一方、抵抗する人たちもいました。
海軍副総裁の榎本武揚は、軍艦引き渡しを拒否し、4月11日、抗戦派の旧幕臣らとともに7隻の軍艦を率いて、館山沖に逃れてしまいました。
海舟の説得により艦隊はいったん品川に戻り、新政府軍に4隻(富士・朝陽・翔鶴・観光)を渡すことで妥協が成立しました。
後に、榎本武揚は、8月19日に開陽ほかの軍艦8隻を率いて、品川を脱出してしまいます。そして、榎本らは箱館の五稜郭を占拠し、最後まで新政府軍に抵抗することなります。

