【強硬派が江戸へ】
当初、東征軍は、勝海舟の知略により、融和策をとっていました。
そのため、彰義隊も、市中取締りを任されていました。
しかし、京都では、東征軍のこの対応に異論がでて、大村益次郎が派遣されてきました。
大村益次郎は、閏4月4日に東京に着任します。
東征軍の参謀の対応は冷たいもので、特に、上京中の西郷隆盛に代わって、東征軍の中心人物となっていた海江田忠義の態度は冷たいものでした。
【彰義隊討伐方針決める】
その後、三条実美が関東監察使として東下してきました。
閏4月25日には、三条実美は、徳川家を70万石に減封して静岡に移す処分を内定しました。この方針のもと、彰義隊討伐が具体化してきました。
まず、5月1日、徳川家から江戸市中の取締権を取り上げ、大総督府みずから行うこととしました。
この処置に彰義隊は激昂しました。
彰義隊の暴発を恐れた勝海舟は、上野に山岡鉄舟を派遣して彰義隊の解散を促しましたが、もはや受け入れられる状況ではありませんでした。
上の写真は、現在の寛永寺の根本中堂です。
東征軍は、武力討伐にあたって必要な戦費は50万両でしたが、そのめどがたっていませんでした。
しかし、アメリカに発注していた鋼鉄艦の引き渡しをアメリカが拒んだため、その購入費が余ることとなりました。
このお金と江戸城の宝物を売って調達したお金により、ようやく戦費が整いました。
そこで、武力討伐が行えるようになりました。
【大村 独壇場】
しかし、即時決戦を主張する大村に対して、「兵力が少なすぎる」と海江田が反対しました。
この時、大村益次郎は、「兵力は十分だ」と言い、「あなたは戦争を知らない」とまで言いました。
これに対して、海江田信義は大いに怒りました。このことが、後の大村暗殺につながったという説もあります。
この時、西郷は、「大村に任せよう」述べて、その場をおさめました。
また、布陣をみると、激戦が予想される黒門に薩摩藩が配置されていたため、西郷と大村との間でやりとりが起きました。「薩摩兵を皆殺しにするつもりかと詰め寄る西郷に対して、大村は「さよう」と平然と答え、西郷を驚かせたという話もあります。
軍議の席では、出席者の多くが夜襲により一気に勝敗を決すべきだ主張しました。
しかし、大村は「官軍である以上、賊徒は正々堂々と討伐すべきである」と言い、夜襲は採用しませんでした。
彰義隊が夜陰にまぎれて市中に火をつければ、江戸が灰燼に帰す怖れがあることも考慮したと言われています。
こうして大村益次郎主導により、彰義隊討伐計画がつくられ、5月15日が上野総攻撃の日と決められました。
明日は上野戦争について書きます。

